なぜ、私は闇の側に立つのか

私は、最初から一貫して、自分が「闇」の立場から、ものを書くと表明した。これは、私が「光」を嫌っているというわけではない。単純に言って、闇側に立って発言するひとが、あまりに少ないのである。先に述べたように、

「光=善=浄=真=神」と「闇=邪悪=穢れ=偽=魔」

という構図は、私が常々おかしいと思っているものだ。そしてすぐに、自分が前者の「光グループ」に属していることを表明、確認して、話が終わってしまう。もっと過激な例(と言ってもよく見る例)では

闇に光を当て、光に転換させる

というまるでオセロのようなことを言い出す。

私の意見をはっきり言おう。これは「曇り」「邪」「穢れ」「闇」をすべて混同している。そして相手に「光を当てる」というのが高次元の「善」だというのなら、それは「光」と「善」に対しても、とても失礼なことだ。だから私は、このようにぐちゃぐちゃになってしまったものを、私の視点から少し整理してみたい。そして、あなたが光よりも闇に魅かれていたとして、それはあなたが邪悪だということを意味しないということを伝えたい。黒い石を白くする必要はないのだ。もし無理矢理に白くしたなら、それは文字通り「無理」を通したことになるし、黒い石を「穢した」ことになる。

このように単純なことを、無条件に光を礼賛するひとびとと、せめて同じくらいの数のひとびとが主張してくれていたなら、私はこの場で語ることなどすぐにやめよう。しかし私の見るところ、現状はそうではない。だから、私はあえて闇の側に立って、こうして書いているのである。

最後に、私は霊存在を完全に肯定しているので、このような活動を始めた場合、そのような方々がそれぞれの立場から動き出す可能性があることを充分に承知している。だからその方々に、それぞれ以下のことを伝えたい。

「光」を自認する霊存在の方々へ。

私はあなたがたに対して、少なからぬ敬愛の情を抱いている。闇を愛するならば、光も愛するのは当然のことで、お互いを相反するものとして捉える必要は、まったくないと考えている。そして逆に言えば、光を愛するならば、闇も愛するのは当然のことではないのだろうか。どうか温かく、見守ってほしい。

「闇」を自認する霊存在の方々へ。

「邪」「魔」「偽」「悪」などの言葉の、特に否定的な面がことさらに強調され、そして「闇」と結びつけられている。今起きている悲劇的な現象の多くは、「闇の勢力」あるいは「魔」が起こしているのだそうだ。そしてこれらは、ほとんど区別されていない。これは、おかしいとは思わないだろうか。とはいえあなたがたは、滅多なことでは自らの意見を大々的に表明したりはしないから、私の動きを有難迷惑だと思っている節もあるかもしれないが、どうか温かく、見守ってほしい。

「曇り」・「穢れ」によって負の霊(「邪」や「魔」)になってしまっている霊存在の方々へ。

あなたがたが自分の状態を自覚しているかどうかはわからない。それにもしかすると、このようなことを書いていちばん憤慨するのもあなたがたかもしれないと思う。しかし、私はあなたがたがその本来の純粋な力を発揮したとき、そこに素晴らしい可能性が秘められていることを知っている。と、こう書いても傲慢にしか聞こえないかもしれない。ならばこう言おう。私もこの世に生きて、ともするといとも簡単に曇ってしまう。穢れてしまう。今現在だって、100%純粋な状態だとは決して言えない。だからどうというわけではないが、自分も含めそういうような現状をどうにかしたいと思って、これを書いている。あなたがたの気持ちが完全にわかるとは言わないが、少なくともあなたがたの想いを無視するつもりはない。だから、どうか温かく、見守ってほしい。

霊存在に「偽り」は通用しない。だからこれは私の本心である。これをはっきり書いておきたかった。そろそろ本論に入っていきたいのだが、その前にもう少し、書いておくことにしよう。とはいえそれは、また次回。