「全体性」としての闇と、「個性」としての光

たとえあなたが自身の容貌にどれだけ引け目を感じていたとしても、完全な闇の前では、それはなんの意味も持たない。そこに1万の人間が列を成していたとしても、完全な闇の中では、外部の者がそれを識別し、数えるのはほとんど不可能である。そもそもそれが人間であるのかどうかすら、判断することはできない。このことから、闇は「全体性」という性質を持っていると言える。

しかし、そこに光が差し込むと、一瞬にしてその全体性は失われ、1万人それぞれの特徴がまさに「明るみに出る」。そしてもしかしたら、そこにはひとによく似たかかしが紛れ込んでいたことも、知られるかもしれない。このことから、光は「個性」という性質を持っていると言える。

また、逆に言えば闇は個性を全体性に「回帰」させるはたらきを持っているとも言える。ブラックホールは、周りのものをことごとく吸い込む。その先は、全体性の世界である。対して光は、全体性から飛び出て、個性を「発揮」する働きをしていると言える。何人ものなかから、ただひとりにスポットライトが当たる。そのとき、彼/彼女は他から「区別」され、「個」として存在するようになる。

このことを、最も具体的に表している例のひとつが、人間の「誕生」と「死」である。この世に生を受ける際、ひとは通常何より先に「泣く」。これは息を「吐く」行為である。このときひとは、「全体性」の世界から、「個性」の世界に飛び出している。これは、光のはたらきである。

対して、ひとは死ぬとき、息を吸い込む。だから、死ぬことを「息を引き取る」と言う。このときひとは、「個性」の世界から、「全体性」の世界に還っている。これは、闇のはたらきである。

しかし、このふたつのはたらきは、「流動的」である。世界が光だけになってしまえば、そこに個性はない。ただ、「目がくらむ」だけである。だからそこにあるのは、「個性」ではなく、「全体性」である。

また、闇からも「個性」が生まれることがある。完全な闇のなかでは、なにも見えない。だが、そこには無数の存在が潜んでいるかもしれない。闇は想像力をかき立てる。だから、そこから「妖怪」や「お化け」が生まれる。そこにあるのは、もはやただの闇ではない。個性あふれる存在が、次々に顔を出す。「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」とは、このような流動性を表しているように思われる。

光の世界に目がくらみ、疲れ果ててしまったら、部屋を暗くして眠りにつけばいい。闇の中で「自己」を失くしそうになったら、また光の世界に戻り、自らの「色」を確かめればいい。その繰り返しのなかで、私たちは生き、また1日が過ぎていく。