「神霊」というもの

神社に行って掌を合わせる。そこにはたとえば、「明治天皇」などが祀られていたりする。また、「聖徳太子」や「空海」が祀られている寺院がある。しかし、彼らは「神」というよりむしろ「人霊」である。神社や寺院、教会の多くでは、このように「人霊」が祀られている。

ひとが死ぬ。すると彼/彼女は「人霊」となる。この時点では、彼/彼女は生前の想い、やりたかったことなどによって、それに適した場所、世界で、適した姿をして暮らしているだけだ。だからそこには、大きな多様性が存在する。もっとわかりやすく言えば、いわゆる「善い」霊ではないものもたくさんいるということだ。

そのような多様な存在のなかで、「いのちを育む」、あるいは「自他の喜びを育む」といったことを喜びとする霊存在の方々がいて、それを特に「神霊」と呼ぶ。私たちの感覚で、一般的に「善い霊」だというのは、このような「神霊」のことである。

本来、神社や寺院や教会のひとつの目的は、そのような「神霊」を祀ることにあったはずだ。しかし、いくら名目上は「空海」や「聖徳太子」の霊を祀っていると宣言したとしても、実際にそのような場所に神霊がいることは極めてまれだ。これにはいくつかの理由があるが、そのなかでも大きなもののひとつは、「私たちが現世利益ばかりを願っている」というものだ。まして現在の社会体制も相まって、「自分の現世利益を願う」ということは、自己を他者と比べたうえで、

自分のほうが「しあわせ」になりたい

ということと容易に結びつく。後に詳述する予定だが、

類は友を呼ぶ

というのは極めて的を得ていて、そのような想念のある場所に、本来の意味での「神霊」がいるはずがないのである。

私たちが日常的に遣う「神様」という言葉には、「(自分の)願いを叶えてくれる存在」という意味が込められていることが多い。だが、ここで考えなければいけないことは、神霊が育む「いのち」や「喜び」というのは、「人間以外」、もっと言えば「あなた以外」も含まれているということだ。だから、神霊を「便利屋」のように考えることは誤っている。

さて、ここまでで非常に簡単にではあるが、「霊」(魂)と「神霊」について見てきた。ここから言えることは、「霊」(魂)という非常に多様な存在のうち、一部を「神霊」と呼ぶということ、そしてそれは、私たちが日常的に遣う「神様」とは多少異なるということだ。それでは、「神」(はたらき)とはなんなのだろう。それは、次回で見ていこう。