神(はたらき)と私たち

あなたは『風神雷神図屏風』を見たことがあるだろうか。これは俵屋宗達版がオリジナルで、その後何人かによって描かれているのだが、この屏風絵のモチーフは、そのまま「風神」と「雷神」である。しかし、「神」とはなんなのだろうか?

たとえば「雷神」と聞くと、「雷を司る神」として、意志を持った単体の存在を思い浮かべるかもしれない。そう、『風神雷神図屏風』における「雷神」が太鼓を持ち、雷(雲)を操っているように。しかし、自然界の「水」や「火」や「風」や「雷」は、常に「つかみどころのない全体性」を帯びている。もちろん、原子(あるいはもっとちいさな)レベルで考えたり、人間がその一部を借りて遣ったりすることはできる。しかし、自然のはたらきは、とても巨大だ。

このようなはたらきを持つ自然の一部である「風」や「雷」を実体を持ったものとして「仮に」描いたものがたとえば『風神雷神図屏風』なのである。だから自然は特定の単体の存在に司られているものではないし、まして「絵」に描けるようなものではない。

では、俗に言う「風神」や「雷神」のような存在はないのかというと、実はあるのである。霊の世界は「想い」がより直接的に作用する。だから、長い間「信じられて」来た存在はエネルギーを持ち、かたちを成す。これはなにも「風神」や「雷神」に限った話ではなく、「水神」として知られる「龍」もまた、そのようにして「創りだされた」存在だ。「想像」とはまさに「創造」なのである。

しかし、何度も言うがそのような「かたちを持った」風神や雷神や龍が「神」なのかといえばそれは違う。彼らは「神霊」であって「神」(はたらき)ではない。わかりやすくするために例を挙げよう。

たとえば最も根源的な「神」(はたらき)のひとつである「水」で考える。「水」という神(はたらき)は無数の「神霊」によって支えられている。これは他のたとえば「火」についても同様に言える。ちょうど私たちが大きな目的(はたらき)を成すために「チーム」を組むように、ひとつひとつの「神霊」のはたらきが組み合わさって、巨大な全体としての「神」(はたらき)が生まれる。

一にして多、多にして一

という言葉もこれに関係しているのではないかと私は考えている。

「神」というはたらきはどれも極めて巨大で、複合的な要素から成っている。しかもそのような「神」それぞれがさらに互いに結びついて、より大きなはたらきを成している。どの「神」も極めて大きいので、そのなかからさらに区別して、「大神」(おおかみ)という理由は必ずしもないとは思うが、それでも「最大の神(はたらき)」と言えるものがあるとすれば、それは「宇宙」ではないかと考えている。いつかどこかの存在(これを<神>と呼ぶものが多い)が宇宙を創造したのではなく、宇宙そのものが「神」なのである。そしてもっと私たちの身近で言えば「地球」そのものが「神」なのである。だから、「自然」も「神」そのものだ。

多様な「霊存在」のうちで、「いのち」や「自他の喜び」を育むことに喜びを見出している者を、特に「神霊」と呼び、その「神霊」のはたらきが合わさってできる「いのちは喜びを育むはたらき・仕組み」そのものを「神」(はたらき)と呼ぶ。これは、世間的な「常識」とは必ずしも一致しないかもしれないが、あなたの腑には落ちただろうか? ただ、これは以降の話の大きな「基礎」になる部分であることを強調しておく。「神」に何度も(はたらき)という註をつけて、俗に言う<神様>(=神霊、ないしはただの(必ずしも善くはない)霊)と区別したのもそのためだ。

そして、このような見方で考えると、一般的な

神は存在するのか?

という問いは、もはや意味を成さない。なぜなら私たちは既に「神(はたらき)のなかにいる」からだ。さらに言えば、あなたや私自身も、大きな「神」の一部なのだ。なぜなら、私たちも肉体を持った「霊」なのだから。そして私たちは、自らがどんな「はたらき」をするかを自分である程度「選ぶ」ことができる。「選べる」(選ばなくてはならない)ということは、ときとして悩みの種ではあるが喜びの種でもある。さて、どんなはたらきをしようか。とはいえ、今日はもう眠るとしよう。休むことだって、大切なはたらきなのだから。