神話における「神々」を「象徴」として捉える

小説やドラマなどの場合、それが事実に忠実なものであるにしても、やはりある程度の「作りもの」であることは誰もが承知している。そしてもちろん、「歴史」もその「編者」によって「作られる」ものではあるのだが、現在より遠く離れた時代のものであればあるほど、そのどこまでが「事実」なのかは極めて判断が難しくなる。そして、扱いも難しくなる。「神話」はまさにそうである。

私は先日「神」とは「はたらき」であり、それに「姿」が与えられたとしてもそれは「仮の姿」にすぎないと言った。

あなたは『風神雷神図屏風』を見たことがあるだろうか。これは俵屋宗達版がオリジナルで、その後何人かによって描かれているのだが、この屏風絵のモチ...

本来つかみどころのない「はたらき」を具体的な「対象」として捉えるために、それに「姿」や「名前」を与えようとするのである。

そのような観点から、たとえば『古事記』を見てみる。『古事記』においては、日本列島を産み、様々な「神々」を産んだのは「イザナギ」と「イザナミ」であるとされ、それぞれに性別が与えられている。つまり彼と彼女が世界の基本的な「はたらき」を産んだとされ、その「はたらき」にもそれぞれ「~神」のように名前が付けられているのだ。

しかし、このような「イザナギ」や「イザナミ」、そしてこの2神から生まれた「神々」をすべて「人格」のようなものを持った、「単体としての存在」として捉えるのはやはりおかしい。前述したように、彼らもまた多くの方々によって「信じられて」いるから、その力によって「創造」され、「神霊」として存在していることはあり得る。だが私はそれを認めたうえでも、もともとこのような「神話」や「神名」のようなものは、「象徴」として捉えたほうがすんなり理解でき、腑に落ちると考えている。

その例として、先ほどから何度も取り上げている「イザナギ」と「イザナミ」で考えてみる。私はこの、

「イザナギ」と「イザナミ」が世界のはたらきを産み出した

というのは、『凪』(=静=闇)と、『波』(=動=光)のふたつのはたらきから、すべてのはたらきが派生的に生まれた」ということを象徴的に表したものだと考えているのである。

おなじように私は、たとえば「天照大御神」は「太陽」という「はたらき」が具象化されたもので、「スサノオ」とは「いのちの継続」という目に見えない「はたらき」を具象化したものと捉えている。

だから、そのような意味での「神」に性別を与えるのは無用な混乱を招くだけのような気がするのだが、それも「具象化」の一環として捉えれば仕方のないことなのかもしれない。ただ、「凪」のはたらき(=イザナギ)が「男性」で、「波」のはたらき(=イザナミ)が「女性」なのは、まったく逆ではないだろうか。

このように、神話を「そのまま」捉えるとどうしてもおかしなことになってしまう。そもそも、神話とは「人間が伝え、編集し、書いたもの」なのだからそれをそのまま「真実」だと言えるはずがない。ただし、これを「象徴」として捉えれば、そこには実がないわけでもない。

だから私は「天照大御神」に掌を合わせるのならむしろ、「太陽」のはたらきに感謝したい。「ワダツミの神」を探して神社に行く必要はない。「海」なら行けばあるし、「水」は私たちの生活をいつも支えている。神社や寺院で仰々しく祀られているのはすべてその象徴にすぎない。私が水に心から感謝してそれを飲むことができたとき、私の体内に入ったのはもはやただの水ではない。そのとき私は水の「神」とともに在るのだ。