霊界(想念界)の基本は「想いがすべて」ということだ

うまく行かないのは、想いが足りないからだ

できると思えばできる

「精神力が足りない」など、精神の大切さばかりを説かれると、げんなりすることもある。だが、確かに精神には強い力がある。ただし、この世界では、様々な立場の様々な存在の「思惑」が複雑に絡みあっていること、また、それぞれの境遇が異なること、そして「想い」が「かたち」を成すまでに「時間差」があることなどによって、それが見えにくくなっている。

しかし、霊界では「想いがすべて」だ。だから霊界のことを「想念界」とも言う。霊界では、自らの想いによって、まさしく住む世界が変わる。

類は友を呼ぶ

という言葉がこれ以上ない意味を持つ。どんな存在であれ、霊界ではそれぞれが自らの「喜び」を感じるような世界に生きている。そして、なにを喜びとするかによって、「霊界」というひとつの世界には多くの「階層」のようなものが生まれている。あらゆる意味で「似たもの同士」が集まっているのだ。逆に言えば、自分の想いが変われば住む世界も一瞬にして変化する。もちろん、そこにはまた異なったことに喜びを見出す霊存在が住んでいる。

だから、なかには自分の存在する「階層」が霊界のすべてだと思い込んでいるひともいる。それも、かなり多くいる。そして、自らの属する階層のなかで指導的(リーダー的)役割を果たしているものを<神>(俗に言う意味。最上位の存在ということ)だと思い込んでいたりもする。そして、隙あらばそれになり代わろうと思っていたりもする。かわいらしい野心である。

では、なぜ彼の野心は実現しないのだろうか。それは、彼/彼女の「自分が<神>になる」という野心が相対的に「弱い」からである。想念界では、様々な想いが渦巻いている。極端な場合で考えてみよう。あるふたりの霊存在が、互いを「殺す」(消滅させる)という想いをぶつけ合った場合、勝つのは想いのより強いほうだ。しかし、話はそう簡単ではない。なぜなら想念界にはそのふたり以外にもたくさんの存在がいるからだ。そして、「殺す」(消滅させる)という想いは「喜び」や「他者の尊重」という想いよりも「弱い」。つまり、エネルギーを「産み出す」のではなく、「奪い合う」想念は、最後には身を滅ぼすのである。

もちろん、このような「奪い合う」想念が満ちあふれている階層もある。もちろん、私たちのすぐ身近にもある。これは私自身にとっても、身につまされる話だ。ただ、そのような想念界(の階層)は、私たちの住む世界よりもさらに壮絶だ。

しかし、霊界ではみながそれぞれの想いに合わせた階層に住んでいるのだから、その意味では全員が「喜び」のなかに生きているともいえる。しかし、他と奪い合うのは真の喜びではない。だから、そのような階層に住む者たちは「曇り」・「穢れ」・「邪」・「魔」などと呼ばれるのである。

程度の差こそあれ、私たちの世界も「想い」が強い力を持っていることは間違いない。

想いを本当の喜びに向けよう

他者を尊重しよう

と言われて簡単にできるならば苦労はない。だが、「できると思えばできる」とは言わないにしても、やろうと思わなければできないということは言えるだろう。私たちは結局、やろうと思ったことしかできないのだ。これは残酷な宣告のようでもあるが、同時に救いでもある。