「真実を見つけること」よりも「真実を意味づけること」のほうが難しいかもしれない

どこでもいい、あなたにとっての「聖地」のようなところにあなたが初めて行ったとしよう。そこで、何百年に一度しか公開されることのない「本尊」のようなものが公開されるとする。そして、ついにそのときがやってきた。多くの方々が見守るなか、その「本尊」が公開されるとそこには、

と書かれていた。それを見て、集まったひとびとはただただ涙を流した。

しかし、その様子をテレビで見ていたこどもは一言、

な~んだ。あんな「あ」なら僕にも書けるよ

と言って笑った……。

この話自体は私の創作だが、ここで私が試みたことは、「真実」に対する問題提起だ。この話における「あ」を、一般的な「真実」に拡張して考えてみてほしい。「真実」というのはこの「あ」と同様、それ自体では何の意味も持たず、それが置かれた状況、およびそれを意味づける存在によって、初めて意味を「持たされる」のだと私は考えている。

たとえばこの「あ」と同じものが、トイレの壁に描かれていたら、それを見たひとが涙を流すとはまず考えられない。それはまず、「落書き」として捉えられるだろう。しかし、ひとたびそれが「聖なる」文脈に置かれると、この「あ」はただの「あ」ではなくなる。それは、「あ」自体が変化したのではなくて、それを見るひとの意識・態度が違うためなのだ。あるひとは、その「本尊」としての「あ」を見て、

これは万物の始まりとしての「あ」を意味しているのだ……

と考えるかもしれない。またあるひとにとっては

これは『阿字の子が 阿字のふるさと たちいでて またたちかえる 阿字のふるさと』にも関連した『あ』だ……

と考えるかもしれない。

しかし、こどもにとっては、そんなことは関係がない。だから「落書き」を崇めるのを見るように、それを一笑に付すことができる。もちろん、人間以外の生物にとってはどこにどんなものが書かれていようとどうということもない。

「真実」と言っていいようなものは確かにある。しかし、それをどのように捉えるかによって、そこからは無限の多様性が生まれる。だから、その意味においては「真実」はひとつではないと言える。

たとえば、生まれ変わり(輪廻転生)は確かに存在する。しかし、だからと言って現世で起こるいわゆる「不運」をすべて「前世の報い」だと考えるのも、「輪廻転生があるなら現世でどんな行いをしてもリセットされるからいいのだ」と考えるのも早計だ。それに、輪廻転生があるにせよ、あなたが「あなた」でいられるのが今生限りなのには変わりない。だから、「輪廻転生があるかないか」という問題と、「『輪廻転生がある』という事実をどう捉えるか」という問題はまた別のもので、もしかしたら、後者のほうがより難しいとさえ言えるかもしれない。

あなたも私も生きている。これは事実だ。あなたが霊存在であっても「存在」していることに変わりはない。それでは、その事実を踏まえたうえで、どう生きればいいのか?私が一言で言うならば、

喜びを選んでください

ということになるのだが、あなたの「喜び」は、あなたにしかわからない。だから、「真実」はあなたが意味づけたところにしか存在しない。逆に言えば、あなたを芯から笑顔にするもの、それがあなたにとっての「真実」なのだ。