「平等」を曲解すると、こんなおかしな話になる

100メートル走などで、

順位をつけないために最後は全員で手をつないでゴールさせる

という話や、学芸会などで

主役と脇役の差をつけないために全員を白雪姫にした

などという話を耳にすることがある。私自身は体験したことがないのでわからないが、どうやら一部の学校では本当にある話らしい。

しかし、このような手法が本当に善いものだと考えているひとがいるとするなら、そのような方々は「平等」というものを曲解しているように思える。「平等」とは、「すべてを一様に均すこと」ではない。「すべての存在を大切にすること」である。同様に「調和」とは「すべてが静止すること」ではなく、「それぞれがそれぞれの役割を果たすなかで、全体として和が創られた状態のこと」を言うのである。

さらなる問題は、このような教育を受けて育ったこどもたちも、ある時期を過ぎると否応なく「能力主義」の洗礼を受けることになるという点にある。能力主義もひとつの「思想」ではあるのだが、現代社会ではそれが大きな影響力を持っている。そこでは容赦なくそれぞれの存在が「競わされ」、「順位づけ」される。そのことを承知の上で、このような「平等」教育が為されているとしたら、それは欺瞞であり、卑怯である。

自分が他者とどのように関わっていけるのか、そして自分にはなにができるのかを知るためには、まず「自己」と「他者」を知らなければならない。そこで大切なのは、そこでそれぞれの「特性」に「優劣」をつけることなく、ただ「尊重する」ということだ。「足が速い」ということを知ること自体は善いことだ。だからと言って足の遅いひとよりそのひとが「より優れた存在」なのではない。ただ、「足が速い」ということを他者のために活かすことによって、それはそのひとの「喜び」ともなり得る。そうなったとき、それは「役割」となる。

比べることが哀しみを生むのではなく、そこにつけられた「上下・優劣」が哀しみを生むのだ。比べることなしに自分の「役割」は見出し得ない。役割を知るとは、「自己の尊さ」と「他者の尊さ」を知ることである。そしてそれは、いのちの大切さを知ることでもある。

私たちの社会は、未だいのちを大切にするには至っていない。ただ「一部の能力」が大切にされているだけだ。そして繰り返すが、「平等」とは、「すべての存在を一様に均すこと」、あるいは「すべての存在に同じ能力を身につけさせること」ではない。私たちの生は、それぞれ異なっている。特定のスタートラインもゴールテープもない。だからこそ、すべての存在が貴重なのだ。

「みんな平等に不平等である」

ということを真に理解したときこそ、私たちの社会には、そして世界には、新たな展望が開けてくるのではないだろうか?