「自分の肉体」そのものが「神」(はたらき)である

私たちのいわゆる「生命維持活動」は、その多くが自動的に行われている。もちろん、私たちが自ら意識して深呼吸をすることもできるし、自分がなにを食べるかを選ぶこともできる。だが、食べたものを消化したり、血液を循環させて栄養素を行き渡らせたりすることなどは、それを意識的に行おうとしてできるようなものではない。

「神経」という言葉に「神」(はたらき)の字が入っているのには先賢に頭が下がる。私たちのからだには「神経」が、はたらきが張り巡らされていて、それぞれが役割を果たし、私たちのいのちをつないでくれている。「盲腸」や「尾骶骨」のように、私たちの生命維持には直接関わりのないように思えるものもあるが、それらは私たちのいのちが脈々と受け継がれてきたものであることを思い起こさせてくれる。それに、「直接的有用性がないもの」も存在しているということは、なかなかしゃれているのではないだろうか。「役に立つ」かどうかだけがすべてではない。「存在そのもの」が、すなわち「価値」なのだ。

また、「存在しないもの」も同じく価値である。たとえば人間で言う「盲点」は私たちがありのままの「現実」に「意味をつけることで」初めて世界を理解していることを教えてくれる。また、物事にはそれぞれの見かたがあり、それを組み合わせることで豊かさが生まれてくることも、盲点が暗示している。もし、私たちが盲点を自力で「補う」ことができなかったとしたら、それは他者に教えてもらえばいい。それに、「空間」とはあらゆるものの源である。だから、「存在」も「非存在」も価値である。

このように、私たちのからだは私たちに多くのことを教えてくれる。からだはやがて朽ちるが、それは分解されて、また巡る。これはひとつの「輪廻転生」だ。それに、私たちはこのからだがなければ、この世界にこのようなかたちでは関わっていられない。これほどの「感覚」を得ることもない。私たちはからだから、多くの恩恵を受けている。

からだは私たちにとっていちばん身近な「神」(はたらき)だ。からだに無理をかけてまで階段を上り「神社」に行くくらいなら、マッサージでも受けるか、寝たほうがよっぽどいいと私は思う。さて、私もからだをいたわるために、風呂にでも入るとしよう。