いわゆる「霊媒」(シャーマン)の先駆者はたくさんいる

コロンブスはアメリカ大陸を創りあげたわけではない。人間として初めて上陸したわけでもない。ただその大陸と、そこに住むひとびとを「発見」しただけだ。霊界(想念界)も、私が初めて関わりを持ったわけではない。それはずっとそこにあったし、これからもそうだ。

だから私は、誰でもが「霊媒」(シャーマン)になる可能性を秘めていると思っている。それは私自身の経験からも言えることだ。現代の日本では「霊界」とはなにかとても「特殊な世界」で「近寄り難い」と思われている一方で、「スピリチュアル」という名前で「怖いもの見たさ」と「神秘的なものへの憧れ」が合わさったような興味を引いているようにも思える。これは非常に奇妙で滑稽な状況だと私は感じる。

たとえばテレビなどで「霊能者」がどのように扱われているかを見るたびに、私はいつもなんとも言えない気持ちになる。あれほどまでに「商業的」なものに出てくる霊能者に「本物」はほとんどいないだろうし、いたとしても非常に居心地が悪いことだろう。

いわゆる「宗教」の始祖と言われる覚者で、「団体」や「施設」のようなものを作ることを奨励したものなどいないのではないだろうか。しかし、その意に反して、「神道」も「仏教」も「道教」も「キリスト教」も「イスラーム」もみな「宗教団体」となり、哀しいほどに「ビジネス」や「戦争」と結びついている。こんな「宗教」が、「真実」を明かしているとはとても思えない。だから、もし現代に「ゴータマ・シッダルタ」や「イエス」が現れたところで、彼らの教えに耳を貸す者はそうそういないだろう。そして彼らの最大の障碍となるのが「宗教団体」だとしてもなんら不思議はない。

しかしそうであっても、現代にも「真実」を追求している方々はたくさんいるだろう。「科学者」も本来そうであるはずだし、実はいわゆる「スピリチュアル」の世界で、活発に活動しているかたにおいても、私が少なからぬ敬愛の念を抱いている人物が2人いる。僭越ながらその方々を簡単に紹介したい。

ひとりは、「礒邉自適」氏である。彼の活動は主に

旧称は『王道』というものでした。

というブログでうかがい知ることができる。彼の文章は膨大で、すべてを紹介することなどとても私の力の及ぶところではないが、彼は真のシャーマンのひとりであると私は感じている。詳しくはリンク先を見てほしい。また、私は彼の

という詩に強い共感を覚えている。よかったら読んでみてほしい。

もうひとりは「神人タケ」(かみひと)氏である。この名前は彼のアーティスト名だが、彼は音楽活動と講演活動を通して、彼の見出した「真実」を、全国各地で伝え歩いている。

神人(かみひと)とは?「神=いのちを司る仕組み=地球(山・川・海・水・火・土・風・岩・木・・・)の恩恵に感謝しながら、他と和し喜び生きる人」という意味です。「地球に感謝しながら生きる人が増えますように!」という願いが込められております。

そして「地球愛祭り」というチャリティーイベントなども発案し、その活動もまた、各地に拡がりを見せている。

「地球愛祭り」とは、地球に感謝するお祭りです。私たちはすべての面において、地球の恩恵を受けて生きています。にもかかわらず、私たちは地球を汚し、破壊し、お互いに争い続けています。このままではいけないのではないか、との思いから「みんなで地球に感謝しましょう」という意味で、地球愛祭りを開催しています。

さらに彼は、自身に関わる守護霊団からのメッセージをまとめて、『大日月地神示』として出版している。私は彼に直接会ったこともあり、彼の言う「真実」も聴いたが、私の立場からもおかしいと思った点はない。「魔」や「闇」の存在意義をむげに否定しないことも含めてだ。

彼らはともに「霊媒」(シャーマン)であることを公言するとともに、自身が「疑い深い」性格であるとも公言している。私はこの態度にも、強い共感を覚える。他者の経験は他者の経験であり、それをただ鵜呑みにするだけでは、いつまで経っても自分自身が成長しない。「スピリチュアル」では「素直であること」がときとして強調されすぎている気がするのだが、「疑う」ことも「真実」の追求には絶対に必要だと私は考えている。

それに加えて、彼らはとても愉しく生きているように見える。もちろん、大変なこともあっただろうし、いつもいつも笑っていられるわけでもないだろうが、それでも彼らは「喜び」を表現している。それも私が彼らを敬愛する理由だ。

彼らのほかにも、私は何人かの「シャーマン」と実際に関わったことがある。私の知らないシャーマンもたくさんいるだろう。このことから考えても、私だけが特別だとは思えないし、そう思うのは非常に危険な罠だ。とはいえ、私には私の「立場」があり、私の見方がある。だから私はこれからも、私なりにそれを書いていきたい。あくまでも、脈々と続く歴史のなかの、ひとりの存在として。