私たちが「楽園」を求めるべきは「過去」ではなく、「未来」だ

「古き善き時代」という言い回しがある。そこでは現在よりも「過去」の時代に、より善い世界があったという主張がなされている。キリスト教における「楽園」も、神道における「神代」(神世)も、仏教における「正法」も、その根底には相通じるものがあると言える。それに、そこまで「大昔」の時代でなくても、たとえば「縄文時代」であったり、「江戸時代」であったり「高度成長期」であったりを懐かしみ、「古き善き時代」と位置付ける者、風潮は数多い。

しかし、仮に「いつかどこかの時代」に「楽園」(理想郷)があったのだとしたら、私たちの歴史はそこからずっと「堕落」(下降・頽廃)していることになる。実際、そのように考える方々も多い。だが、私はそうは思わない。それは「生きる」ということに対する侮辱であり、「生きる」ということの放棄であり、「いのち」の価値を否定するものだ。

私たちは常に変化し続けている。たとえ私が頑強に変化を拒んでも、世界(宇宙)のほうが変化し続け、地球は回り続けているのだから、私は相対的に変化し続けていることになる。さらに言えば、本当に変化したくないのであれば、

「変化しないために変化する」

必要があるのだ。

これを時間の面から考えることもできる。「現在」(今)は常に「過去」に流れ、私たちは「未来」に向かっている。いのちもまた、そうやって流れている。「過去」はもはや「情報」でしかない。それは過ぎ去ったものなのだ。もちろん「過去」のいくらかは確かに「現在」に影響を与えているが、私たちは「未来」に向かうしかないのだ。

生きるということは、

過去に上書きして未来を創る

ということだ。確かに、過去のある時代から、私たちはある面において「間違った」選択をしたのかもしれない。しかし、それすら「経験」として、反省するべきは反省して、取り入れるべきは改めて取り入れればいい。私たちは過去に「先祖がえり」するのではなく、「新しい世界」に踏み出すしかない。そのうえで、過去の善さも見直して取り入れていけば、それが真の「豊かさ」につながる。

そしてそれはなにも巨大な「歴史」にだけ言えることではない。私自身も人生においていつもいつも「素晴らしい選択」をしてきたとは言えない。それでもそのような「失敗」がなければ、今の私はない。そう考えると、すべてがいい経験だったと言い切れる。そしてそのうえで、また明日も手探りで生きていくだろう。

それでもあなたが「過去の楽園」を追い求めようというなら、あなたにぴったりの曲を紹介しよう。スティービー・ワンダーの”Pastime Paradise”(気晴らしの楽園)である。このあとに載せておくので、いちど聴いてみてはいかがだろうか。

まるで「観客」のように、過去を振り返り懐かしむのは、死んでからでも遅くはない。私たちは世界を「眺めて」いるのではない。この世界に「生きている」のだ。だったら、過去ではなく、未来に想いを馳せ、生きてみようではないか。「明日は明るい日」という言い回しにも一考の価値はある。ほら、また新しい日の始まりだ。