私たちの一生は、いつも「いのちがけ」なのだ

生きるとはなにか?

この問いは古今東西あらゆる場所で繰り返されてきた。この問いへの「答え」は無数にあり得る。だが、ひとつ言うとすればこうも答えられるだろう。

生きるとは「いのちを遣うこと」であり、「有限な時間を遣うこと」である

と。

私たちはいずれ肉体を離れる。これが今生における「死」である。それは「消滅」とは異なるが、かといって完全に同じ「一生」を繰り返すことは2度とできないのだから、その意味では生は毎回「1度きり」であり、計り知れない価値を持っていることに変わりはない。そして私たちがなにをしているときも、あるいはしていないときも、「いのちの時間」は刻一刻と流れ続け、ひとつの大きな「区切り」であり「変化」である「死」に向かっている。それがいつ訪れるかは誰にもわからない。

この「事実」から、私が言いたいことは、なにも

時間を無駄にするな!

だの

だから善いことをしろ!

だのということではない。ただ、こういうことだ。私たちの一生(時間)は有限であり、それゆえに私たちの生はいつも「いのちがけ」なのである。だから、たとえば風呂に入るのも、考え事をするのも、誰かに愛を告げるのも、酒を飲むのも、うなだれるのも、笑うのも、ただなにもせずボーっとするのも、すべて「いのちがけ」なのだ。

こう考えたときに、私は次のような想いに達した。

私は、憎むためにいのちを懸けるのか?罵るためにいのちを懸けるのか? すべてを敵視し、天地に唾を吐きかけることにいのちを懸けるのか?自分のいのちを否定し、生を放棄することにいのちを懸けるのか?やりたくもないことをやり続けるためにいのちを懸けるのか?これらはすべて、いのちを懸けるにはあまりにバカバカしいことではないのか?

私は今でもこれを確信している。だからと言って、いつもいつもやりたいことだけできているわけではないが、すべての瞬間が等しく「いのちがけ」であることを自覚しようとは思っている。この『闇の向こう側』も結局は「いのちがけ」で運営していることに変わりはない。だから私はこうも思っている。私にとって真に「善い行為」とは、私が心から望んでいのちを懸けられる行為であると。

さて、あなたはどんなことにいのちを懸けるだろうか?