まず全員の腹を満たせ。話はそれからだ

「平和」を願う存在は数多い。私は「平和」という言葉よりも「調和」という言葉のほうを好む。それは「平和」に「静的な」イメージがあるのに対し、「調和」にはそれぞれの「動き」が全体として和を編み出しているという「活発な」イメージがあるからだ。極端に言えば、「平和」を生み出すにはすべての個性をはぎ取ればいい。そうすればともかく「平和」にはなる。だがそこに「調和」はない。そして「平和」だけを求めすぎると、「変化」に対して恐れを抱くという危険もある。だから私は「平和主義者」ではなく「調和主義者」である。

とはいえ、一般的な「平和主義者」も、私のような「調和主義者」も「争い」を好まないという点では共通している。その最たるものが「戦争」であり、「殺し合い」である。「殺し合い」は「活動」ではない。「正義の戦争」というのは矛盾の最たるものだ。

しかし、「戦争」というほど大規模でなくとも、私たちの世界は争いに満ちている。概して、争いは「恐怖の子」である。自分の生存が脅かされているとき、または自分の大切なものが相手に奪われているという想いがあるとき、私たちは争い、奪い合い、互いを否定し合う。

このような現状を、ただお気楽な「スピリチュアリスト」のように、

敵などいない。あなたは完全な存在なのです

などといった甘い言葉を並べただけで解決できるのならば話は簡単だ。だがそうはいかない。なぜなら、「恐怖」や「不安」はただ単に精神的なものであるだけでなく、ときとして「肉体的なもの」であるからだ。

具体的に言おう。現在の地球上では、全人口のおよそ7人に1人、9億2500万人もの方々が飢餓に苦しんでいるといわれている。もっと多い数を挙げるひともいる。そんな状態で、争いを終わらせることなどできるだろうか?

誰でも、自分が腹を空かしているときに、豪華な食事を我が物顔で食している他者を見て穏やかな気持ちではいられないだろう。「先進国」と傲慢な自称を付けて満足している国では「肥満」が増え続ける一方で、今こうしている間にも飢餓で亡くなっていく方々がいる。これは現在の私たちの現状である。こんな状態で、なぜ憎しみを持つことを責められるだろうか?これはもはや、外国の話ではない。この日本でも、飢餓状態にあったり、ひどい場合には餓死してしまったりするひともいる。

こんな状態で、争いが無くなるわけがない。というよりも、この状況それ自体が「争い」そのものだ。だから、私たちの世界から争いを無くしていきたいと本当に思うのならば、まず全員の腹を満たさなければならない。話はそれからだ。