日本が神の国なのではなく、「地」(くに)そのものが神なのだ

「神の国発言」というものが問題になったことがある。この発言が前後の文脈から見て本当に問題のあるものなのかどうかはいったん措いておこう。これは後に述べる。しかし、戦後私たちはそれまでの教育の反動を受けるかのように、「神」といったものを持ち出すことを極端に恐れるようになったように思える。だから、今ある程度の地位を持っているならなおさら、

日本は神の国だ

などと公言できるひとはまずいないだろう。

しかし、その「表向きの」態度とはまったく対照的に、「スピリチュアル」の世界では「日本は神の国であり、特別な国だ」とか、「日本語にしか言霊は宿らない」などといったことを平気で言うひとがいる。つまり一方で「神」や「教え」に対する過剰な嫌悪があり、また一方には偏狭なナショナリズムと結びついた過度で盲目な「日本」賛美があるのである。

このような現状にあるのには細かく言えばいろいろな要因が挙げられるだろう。だがまずひとつ大きな問題は、ひとびとがそれぞれの立場から「真実」を自分なりに追求しようという努力をいともたやすく放棄しているために、その裏で簡単に<真実>を教えてくれるという者を安易に崇拝した結果、「スピリチュアル」の世界はあまりにも低俗化し、かえってひとびとを愚かにしているということだ。

日本は神の国であり、特別な国だ

と言う方々は、そもそも「国家」というものが「国民」と同様、「近代」という時代に作り出された概念だということを認識したほうがいい。どこを以って「国境」となし、なにを以って「日本」だというのか?

日本には内戦の歴史がない。ゆえに神聖な国だ

などと、どうしてそうでたらめを言えるのだろうか?

日本語にしか言霊は宿らない

などと言う方々は、他の言語の美しさを知らないのであろう。「言霊」の思想の神髄は、「言葉には想い(魂)が宿る」という点にある。ならばどの言語であっても、想いが乗せられた言葉にはすべて言霊が宿るのが道理だ。それに、想いを源としない言葉など、どこにあるのだろうか?

人間が仮想的に作り上げたに過ぎない「線」で区切られたある特定の地域や、自らが愛着を持って遣っている言葉だけを神聖化し、他のものより上位に置くことに理はない。私たちはみな「地球」という「地の神」(くにのはたらき)のなかにあり、そのなかで言葉を交わして生きている。その意味で私たちのいるところはどこでもが「神の国」であり、どの言葉も「神の言葉」なのだ。そしてこの地球も、さらに大きな「宇宙」という神(はたらき)の一部であり、その宇宙すらひとつではない。そのような巨大さのなかで、特定のなにかの優位さを争うことは、まったくバカバカしくはないだろうか?

最後に冒頭の「神の国発言」について述べておくと、彼の発言を狭義の「神国思想」と結びつけてナショナリズムの表れとして批判するのは早計だと思う。それを言うなら今の「スピリチュアル」界のほうがよほど危険だろう。彼の発言はメディアにより一部だけがクローズアップされているが、全体を見ると善い意味で注目に値する点も多い。私はこれを見て、彼への印象が大きく変わった。もちろん彼は失策も多かったが、誰にでも、善き面はあるものだ。たとえば、

地球共生の社会のシステムを大事にしよう、水を大切にしよう。それらもとてもいいことだけれど、もうひとつ、地球社会、共生の社会ということなら、共通なことは命が大事なんだよ、人の命が大事だということを考えよう。
お父様、お母様から頂いたことは間違いない。しかし、この人間の体ほど、不思議なものはない。これは神様から頂いたものということしかない。そうみんなで信じようじゃないか。神様であれ、仏様であれ、それこそ天照大神であれ、神武天皇であれ、親鸞聖人さんであれ、日蓮さんであれ宗教は心に宿る文化なんですから。そういうことをみんな大事にしようということをもっと教育の現場で何で言えないのかなあ、「信教の自由だから触れてはいけない」のか、そうではない。信教の自由だからどの宗教も、神も仏も大事にしよう、ということを学校でも社会でも家庭でも言うということが私はもっともっと今の日本の、精神論から言えば一番大事なことではないか、こう思うのです。

この発言に対して、私が異論を差し挟む余地などほとんどないように思われる。あなたはいかがだろうか?このような考えかたこそ、私たちが、そして「スピリチュアル」界の方々が再考するに値するものだと、私は思う。