日々死に、そして生まれ来るいのちに想いを馳せる

「3月11日」はおそらく日本にとって、長く忘れられない日となることだろう。今回の東日本大震災による死者・行方不明者は合わせて約2万人を数え、原発事故はいまだに尾を引き、いのちを脅かし続けている。しかし、そんな日にも生まれたいのちはあった。

世界に眼を向けると、地球の人口は70億人を超え、日々増え続けている。その一方で、多くのかたが日々亡くなっている。国連の統計などを素直に信じるとすれば、世界で年間6000万人弱の方々が亡くなっていると言える。これはつまり、1分間におよそ113人、1秒間に1人以上が亡くなっていることを意味する。そして、それでもなお世界の人口が増え続けているということは、それ以上の数のひとびとが、日々生まれ続けているということである。かくも、生と死は日常的な現象なのだ。

とはいえ、あれほど大規模に、衝撃的なかたちでいのちが失われたのを「日常」とは言えないことは確かだ。ただ、私は自分自身を振り返って思う。私は「四川大地震」も「ニュージーランド大地震」も「スマトラ沖地震」も、それが起こったどの日付も正確には憶えていないと。「世界」(他者)と「自分」を隔てる壁は、ときとして残酷なまでに厚い。 さらに、あれほどの大地震での死者数をも上回る数の方々が、毎年自殺し続けている。

これだけで言えば、日本では毎年「大災害」が起こっているのであり、しかもこれはまぎれもない「人災」である。同じように、「飢餓」による死も、「戦争」による死も、「人災」である。地球が揺れるのも火山が噴火するのも「悪意」の賜物ではないが、「人災」は広い意味での「悪意」と「無関心」によるものだと言える。日々死に、そして生まれ来るいのちに想いを馳せながら、私たちが真の意味でいのちを大切にすることができる世界を創り出せることを、心から願わずにはいられない。そのために必要なのは、悲しみに暮れることではなく、傷ついた存在に寄り添い、自分の弱さを自覚し、ともに決意し、そして行動することなのだろう。