からだが弱るほど、いのちの遣いかたを意識させられる

「心」という言葉の語源は「ころころ」変わるというところにあるという。なるほど、と思う。そしてまた、からだの調子も、日々変化する。「変化する」というのは、やはりいのちの本質なのだろう。

そしてやはり、元気なときよりもからだが弱っているときのほうが、自分の「いのち」を実感し、また「いのちの時間」の遣い方を、強く意識させられる。そもそも、私たちは体調にせよ人生にせよ、うまく行っているときやいい流れに乗っているときにはなかなかそれを省みたり、意識したりはしない。だからこそ、晩年になればなるほどひとは内省的で回顧的になりやすいのだろう。

私自身も、からだが弱っていることを自覚すると、いつも

この生きかたで本当に満足か?

という強い想いが脳裏をよぎる。

もし、明日死ぬとしたら、私はなにをするだろうか?

と、眠りに就く前にもよく考える。

私は死後の世界の存在を確信しているが、だからといって肉体を離れること、いわゆる「死」が私にとって無意味になることはない。なぜなら、たとえ生まれ変わることを選んだにせよ、その新しい生における<私>は今生の「私」とは同じであってやはり違う存在だからだ。からだ(肉体)を「衣服」のようなものだということはできる。ただし、その「服」はいちど脱いだら2度と着ることはできないものだ。だから、すべての生はまさにかけがえのないものなのだ。

以前、

生きるとはなにか? この問いは古今東西あらゆる場所で繰り返されてきた。この問いへの「答え」は無数にあり得る。だが、ひとつ言うとすればこ...

と私は言った。この事実は、自分のからだが弱れば弱るほど、鋭く胸に迫ってくる。前にも書いたが、私はこのサイトの影響力などたかが知れているとは思っている。だがだからと言って、これを「やっつけ仕事」のように書いているわけでは決してない。それなら、今すぐ止めたほうがいい。広い意味で私は、自分が「後悔」しないようにこれを書いている。霊存在になってしまったら、このようなかたちであなたにこれを伝えることは決してできない。だからこそ、私は今これを書いているのである。

とはいえ、私たちはなにはともあれできることをやるしかないのだから、これを書いたら今日はまず眠るとしよう。からだをいたわること。それがなにより、からだの主として、私がなすべきことなのだから……。