なにかを知りたければ、そこに思い切りのめり込んでみることだ

私たちは自分自身のことすら、完全に理解するのは難しい。なぜならそこにも無数の「他者」が関わっているからだ。とはいえ、大まかに言えば、自分と「離れた」存在ほど、理解するのは難しいと言えるだろう。それは単に物理的距離だけに限らない。むしろ、「心理的距離」、つまり「価値観」や「行動規範」などが「離れて」いるほうが、相互理解には大きな壁となることが多い。

さらに問題なのは、私たちはよくわからない存在に対して、ただ「わからない」という判断を下すだけでは終わらずに、そこから「ステレオタイプ」(紋切り型の判断)を作り出す傾向があるということだ。それは偏った情報によるものなので、実像とはほど遠いことも多い。どんな存在もとても多様な側面を内包しているのだが、「ステレオタイプ」はその一部を取り出して単純化した結果生まれるからである。これをまさに、「偏見」という。しかし、このような反応は、単純に言って自分の「労力」や「時間」を節約し、効率化を図るためのひとつの「テクニック」である。これはかなり根源的な反応なので、それを完全に抑え込むことは難しい。では、どうしたらいいのだろうか。

それは、「効率化」の逆を行くことだ。ステレオタイプ(偏見)を出発点にするのは仕方ないにしても、それが「偏見」にすぎないことを理解したうえで、理解したい他者のいる世界にとことんのめり込み、そこから自分のすべてを駆使して自分の「見識」をかたち作っていくこと、それしかない。そしてそれは、「自分探し」と同様、永遠に終わらない。だから、決してラクではない。しかし、それが他者を、そして自己を真に理解する唯一の方法のように思える。

もしあなたが徹底した「唯物論者」なら、またそうでなくても現代の「常識」に沿ってものを考えるかたなら、ここで書いていることなど「荒唐無稽」にしか見えないだろう。しかし、この私も元々はなにも知らない状態で生まれてきたのだ。そして自分の経験から自分なりの「見識」をかたち作り、「真実」を追求し、そして「現時点では」、今ここにいる。明日はまた違うところにいるだろう。

あなたがなにに時間を遣い、誰を理解しようとするかを判断するのはあなた自身だ。だがもし、私に関心を持ってくださったなら、私は心から感謝したい。だが、どこまでのめり込むかは、注意しておいたほうがいい。世界の謎(闇)の深さは果てしがないのだから……。