「光あれ」と言ったのなら、その前には闇があったということだ

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。

これは『旧約聖書』「創世記」の一説である。私は一般的な<神>という概念には賛同しかねるが、ここに私が着目する理由は、ここから「闇」と「光」の関係性を考察できるからである。私が言いたいことは、「闇」は「光」よりも先に存在したもの、あるいは「光」すらも内包した全体であるということだ。

スピリチュアル界の方々は、よく、

二元性から一元性へ

ということを説き、それを

光による闇の統合

光一元の世

というように表現する。だが、私は思う。「光一元の世」つまり「光」しかない世などというものは、非常に危うい世界だと。

「光」とは「闇」から派生するものであり、輝き終わるとまた「闇」に還って行き、いずれまた「光」となって飛び出していく。これは「死」と「生」の循環にも通じる、無限の大循環である。この循環がなければ、世界はその動性を失い、意義を無くしてしまうだろう。だから、「不老不死」などというものがよく考えてみればみるほど恐ろしいのと同様、「光」しかない世もこの上なく恐ろしいものに思える。そんなものが仮に成立したとしても、すぐ滅びてしまうだろう。

だからと言って、私が「闇一元の世」などといったものを望んでいるのかといえばそうではない。なぜなら、「闇」しかない世には「多様性」が存在しえないからである。だから、「世界」が存在するためには「光」は絶対に必要なのである。だが、「光」しかない世などというのは、「根」のない植物と同じように弱々しいものとなるだろう。

二元性から一元性へ

というのは、すべてのものはつながり合って存在しているということを認識することだと言える。ゴータマはそれを「縁」と呼んだ。「光」がどんなに拡散してもつながりを失わないのは、その根に「闇」があるからだ。宇宙も漆黒だからこそ、星々の輝きを映すことができるのだ。

私は「光」も愛おしく思っている。だがそれと同じくらい、あるいはそれ以上に、「闇」を愛している。昼間どんなに疲れても、夜はそれを受け止めてくれる。だからこそ、また新たな朝を迎えられるのだ。あなたが見ようが見まいが、「闇」はいつもそこにあり、あなたを見守っている。