「存在する」という葛藤を乗り越え、選択の自由を喜びへ向ける

あなたは光です

スピリチュアル系の方々はよくこんなことを言う。また、

言葉には光のエネルギーがあります

などとも言う。私もそれには賛同する。しかし、そこに込められた意味には、少なからぬ差があるかもしれない。

そもそも私やあなたが「存在している」とはどういうことなのだろうか?それは、あなたが「個性」を持っているということ、そして他者と区別され得ることを意味している。この「個性」というものが本質的に「光」に属している性質であることは、今までも何度も書いてきた。なぜなら、「光」には「拡散」し、「明るく輝き」、「区別を与える」性質があるからだ。だから、あなたも私もその意味では「光」の存在だと言える。

そして「存在する」ということは、同時に「見られる」ということを意味している。そして「見られる」ということは、

「見るひとの立場や視点によって、多様に意味づけられる」

ということだ。だから、あなたがなにか行動を起こした時点で、あなたにどんな意図があろうと、それは無限に多様なかたちで理解され得る。ではそれを恐れて、なにもしなかったら?そのときはまた、

「なにもしていないひと」

という意味付けをされることになる。あるいはあなたはそのとき、「なにもしない」ということを選んだということであり、それはときとして、

世界の成り行きについては他者に一任する

という意志を表明したのと同じだとも言える。

批判されたくないなら、なにもしない、なにも言わない、存在すらしないことだ。

これに似た表現は数多いが、これはエルバート・ハバードのものとされる言葉だ。この一言でこれまでの話をまとめることもできるだろう。そしてもちろんこれは、私たちへの激励である。

「全体性」(闇)から離れ、この世界に「個」(光)として生まれてくることを選んだ時点で、私たちがはなにかを「選択」しなければならない。そしてどんな選択をしたところで、全員が好意的に受け止めてくれるということはないだろう。私たちはそれを覚悟したうえで、しかしそれでも、なにかを選ばなければならない。それは簡単なことではないが、せっかくならばそれぞれにとって「喜び」の多い選択をしたい。この世に生まれたのは決して「罰」などではなく、喜ぶために、自ら「選択」した結果なのだから……。