どんな世界のことでもそこに「真実」があるなら、それは「検証」できるはずだ

「科学」や科学の基盤のひとつである「数学」はなぜこれほどまでに力を持っているのだろうか。この問いの淵源は実のところとても深い。だが、とりあえず表面的に答えるなら、数学や科学の持つ「実証性」や「再現性」が、その力を支えているといってもいいだろう。

私は科学者でも数学者でもない。だから厳密な定義ではないだろうが、ざっくり言ってしまえば、これらの「実証性」や「再現性」の意味するところは、「特定の条件下であれば、誰がやっても、いつやっても同じ結果にたどり着く」ということであると言うことができるだろう。この前提が崩れてしまえば、もはやそれは「科学的真理」とは言えないし、今私たちが「文明の利器」として利用している多くのものが持つ「信頼」は、脆くも崩れ去ってしまう。

ひとつ重要なことは、このような態度で「科学」や「数学」を基礎づけ、それによって世界の在り様を説明するというのはひとつの「態度」、もっと言ってしまえば「試み」に過ぎないということだ。しかし、これを単なる「試み」というには数学や科学は「あまりにもうまく世界を説明できてしまう」ために、結果として現代では「科学的真理」というものが、ほとんど絶対的と言っていいほどの地位を獲得し、より広い意味での「真理」や「真実」とほぼ同じように扱われている。そして逆に、科学によって裏付けのないものはどこまで行っても「怪しい」という評価を抜け出し難い。

だからこそ、現代の「科学主義」の下では「霊存在」や「死後の世界」といったものは「眉唾物」と考えられていて、真摯に扱うべきものとしては見なされていないのである。実際にも「都市伝説」や「オカルト」と言われるようなものを「科学者」が「論破」するといった類の企画が存在しているのには、こうした背景が深く関わっている。

だが、私は「霊存在」といったものの存在を今では確信している。それはなぜか。私自身がそれらの「真実」を追い求め、「検証」し、「経験によって裏付けて」きたからである。私はなにも生まれつきこのような世界のことを知っていたわけではないし、一般的な教育を受けてこなかったわけでもない。それに未来永劫信じ続けると意固地になっているわけでもない。ただ、私にとって霊存在の存在を否定できる根拠も今のところ私にはなく、逆にそれを信じる理由はたくさんあるということだ。

「スピリチュアル」の世界の方々のなかには、自身の論の根拠を自らの「霊能力」だとか自分に憑いてきた存在の「預言」といったものだけに頼る方々もいる。私はそれらのすべてを否定するわけではないが、そういったものは多くの場合「検証不可能」である。だから、

わかるひとにしかわからない

ということになり、結果として「科学」の持つ信頼性には遠く及ばない。

しかし私は、たとえ「霊界」という一般的には「怪しい」世界であっても、そこに「真実」があるのならばそれは万人に開かれているものであり、その意味で「検証」が可能であると信じている。だからこそ、なにも知らなかった私が今は霊の世界について多大な信頼を寄せていられるのである。

だから、私はこの先も、いきなり「預言」や「法則」を持ち出してそれを「自明の理」として話を進めることはできる限り避け、そこにも私なりの「検証」を加えるようなかたちで書いていきたいと思う。とはいえ、私が今まで書いてきたようなことのなかにも、多くのかたにとって「検証不可能」なように見えるものがあるだろう。だが、それが少なくとも私にとって「真実」と考えるに足るものである以上、注意深く追っていけばいつかどこかであなたにも、私の主張が「ひとつにつながる」ときがあるかもしれない。もしそうなればそのとき私はあなたに「理解された」ということだ。

つまり私の言う「検証」とは、「なにかを盲信することなく、自分のアタマで考える」ということだとも言える。そしてもうひとつ大切なことは、

「わからなければわからないでいい」

ということだ。これはあなたを突き放して言っているのではなく、下手に盲信するくらいなら、

私にはわからない

という判断を下したほうがよほどいいということだ。そしてもちろん、私にもわからないことはたくさんある。

何度も書いているように、ある「真実」をどう見るかには立場によっていくらでも違いがあり得る。だからその「検証」の方法は様々でかまわないし、私の言うことにどの程度納得するかももちろんそれぞれだろう。だが、どのような「答え」を導き出すにしても、まずは「検証」することが「真実」への第一歩だ。この態度は、決しておかしな「教え」や「決めつけ」ではなく、どちらかと言えば「科学的」・「数学的」なものだと言えるのではないだろうか。だとしたら、「科学的な」あなたにも納得してもらえるのでないかと思うのだが、さて、いかがだろうか?