作用と反作用。悪意を与える「覚悟」は私にはない

イライラして壁を殴ったら拳が傷む。これは壁が「殴られる」というかたちで与えられたのと同じ力を、拳に返しているからだ。これが物理科学でも有名な、「作用・反作用の法則」の端的な事例だ。

ここ最近、私は「悪意」についての文章を頻繁に書いている。

好意的な感情で相手を護れるなら、逆に悪意によって相手を苦しめたり、不幸にしたりすることもできるのではないか? 前回、 の...

そしてこれから書くこともその続きと捉えていただいてもかまわない。そしてもうあなたは、あなたが100の悪意を与えても、それは相手の意志(選択)と守護霊と肉体によって相当程度弱められてしまうことを知ってしまった。だが、それでも憎しみに行き場がなく、100のうち5でも1でも相手に届くなら、それでもいいから相手に向けるという判断を下してしまうかもしれない。しかしもしそうならあなたは、もうひとつ覚悟しなければならないことがある。

それはその100の悪意が、そのまま「自らにも」跳ね返ってくるということだ。相手とあなたは同等ではない。相手のからだと守護霊はその「害意」から当人を護ろうとはたらくし、相手の意志が「生きる希望」に満ちている場合はそれがなによりも強い守護となる。しかしあなたはそれほどの悪意を、自らのなかに創り上げ、保ち、ぶつけなければいけない。そしてそれはあなたの意志と選択によって行われるものだ。それはまさに炎のようなものだ。それを自分のなかで創り上げるのだから、当然その身も焼かれる。しかもそれはあなたの「内部」で燃える炎なのだから、「外から」与えられる相手が受けるものより、その害はさらに大きくなる。まさに、「自業自得」の最たるものだ。もちろん、相手が「生きる希望」を持っていなかった場合、あなたの悪意は望み通り相手を苦しめるかもしれない。しかし、そのときはあなたももう無事ではない。あなたがどんなに強く想っても、結果は相討ちがせいぜいだ。

他者を本気で傷つけようとしたら自らも傷つかなければならなくなる。相手を殺せばその時自分も確実に「死ぬ」。あなたにその「覚悟」はあるだろうか?もし「ある」と言うなら、私がここであなたになにを言っても、もうほとんど意味を成さないかもしれない。しかし、それでも私が思うことは、それだけの決意があるならば、私ならそれを「喜び」に向けるということだ。「相手を傷つける」という方向性ではなく、

相手よりも人生を楽しんでやろう

という意志の向けかただってあるはずだ。たとえ根底の想いが同じであったとしても、それをどう「育て」、「表現」するかはあなた次第だ。それほどの憎しみを抱くには、それだけの理由もあるのだろう。だが、もしあなたがそれを「悪意」としてしか表現しないなら、あなたはもういちど死ぬことになる。

もうあなたは充分に苦しんだのではないか?わざわざ自分をこれ以上苦しめる必要が本当にあるのか?自分が最も忌み嫌う相手と同じ墓穴に入ることが、あなたの望みなのだろうか?やめておいたほうがいい。どんな想いも、放っておけば無限に膨らむからだ。私は苦しむよりむしろ喜びたい。貴重な時間をわざわざ嫌な相手のために費やしたくもない。それに悪意に沈んだあなたの「末路」も見たくはない。あなたの想いは誰かが必ず理解している。だからこれ以上、無限(無間)の悪意の炎に身を委ねないでほしい。これは私の切なる願いだ。そしてだからこそ、あなたにもこの想いはきっと届くと、私は信じているのである。