「霊主体従」という言葉の危うさとカルマン症候群

あなたは、「霊主体従」という言葉を知っているだろうか? 星の数ほどあるサイトのなかからここにたどり着くようなあなたなら、きっともう知っているかもしれない。しかし、実のところ、あなたはこの言葉をどのように理解しているだろうか?

この言葉はよく「体主霊従」と対比されるかたちで現れ、ほとんどの場合「霊主体従」が優位なものとして語られる。この場合の「霊」とは「精神」や「魂」を表し、「体」とは「肉体」や「欲望」を表すものとして用いられることが多い。その点を強調して、「理想の生き方」として「霊主体従肉属」とか「霊主心従体属」というような言い回しを用いるかたもいる。共通しているのは、

ひとは本来高い精神性によって肉体やそれに準ずる欲望を制御すべきであり、その意味で魂は肉体よりも高位である。そうでなければそれは「獣の如き」生き様である

というような見かたであると言えるだろう。

しかし、私はこのような流れや意見に必ずしも賛同できない。なぜなら私は、

「スピリチュアリズム」では「精神」や「心」の大切さがことさらに強調されることが多い。そしてそのような場合、からだ(肉体)に関することは精神よ...

と以前にも明確に表現したように、「からだ」と「心」の間にはいかなる優劣の関係もないと考えているからだ。

確かに、霊(魂)がからだから離れたとき、ひとは死ぬ。しかしこれは言い換えれば、からだが機能を停止したとき、魂がからだから離れ、死ぬとも言える。同様に、確かに心が穏やかであれば、多少の苦難は「苦」とならない。だがやはり、飲まず食わずでいればひとはどうしてもイライラしがちになる。

「カルマン症候群」という病がある。これは性ホルモンの分泌が大多数の方々より少ないなどの理由で、異性に対して性的な関心を抱けなかったり、自身のからだに性徴がなかなか現れなかったりするものである。これは男女問わず起こり得るものではあるようだが、そのなかでも有名なガーナ生まれのローレンス・クームソンという男性は度々メディアにも取り上げられていて、調べればすぐ資料が出てくる。

ここでの話に即して言えば、彼が異性に対して性的関心を持てなかったのは、彼の「からだ」に原因があった。そして彼の「からだ」に変化を与えると、彼の「心」もまた変化したのである。

私はここで彼がひととして「善くなった」とか「悪くなった」などというような判断を下したくはない。見ようによっては、また時代が違えば、彼のように「欲望」(性欲)を感じない、「純粋」な存在は「神聖」なものだった(とされた)のかもしれない。しかし、彼は自分の置かれた状況に苦悩していたのであり、自らの「選択」によって「変化」したのである。彼は<ひと>であった。そして「ひと」となった。そしてそれは明らかに、彼への「祝福」である。

私が「霊主体従」という言葉に居心地の悪さを感じるのは、このような心とからだの相互関係を、あまりにも安易に捉えすぎているように見えるからである。

あなたはなにを楽しみに生きているだろうか? もしかしたらそれは会社帰りの一杯かもしれない。部屋で聴く音楽かもしれない。あるいは愛するひととの、必ずしも生殖を目的としない、交わりかもしれない。これを「欲望」の行為だと見ることも確かに可能だろう。しかし私は、これも人生において決して欠かすことのできない、重要な「喜び」の要素だと思う。私自身にとってもそうだ。

結局、すべては程度問題だとも言える。ただ、やはりからだを通しての喜びも、なにものにも代えがたいものであるはずだ。そうでなければ、私たちはなぜこの世にからだを持って生まれてきたのだろう? 自らの魂を愛でるということは、自らのからだを愛でるということだ。だから自らのからだを愛でるということは、自らの魂を愛でるということだ。そしてそれが、自分のすべてを愛するということだ。あなたも、そうは思わないだろうか?