理性の落とし穴。誰があなたを殺めるのか?

これを読んでいるなかに「理性」という言葉を耳にしたことのないひとはおそらくいないだろう。多分小学生高学年くらいになればすでにぼんやりとでも知っているはずだ。そして私たちの世界では、「理性的」であることは概ね好意的に受け止められ、奨励もされる。その度合いは、ほとんど絶対的とさえ言える。しかし、理性とは、本当に非の打ち所もなく素晴らしいものなのだろうか?

一般社会はもちろん、その「常識」を疑ってかかる「哲学者」の間でさえ、理性は賞賛される。理性を持つということを、人類と他の動物を分ける、私たちの最大の特長と見るひとびとさえ数多い。こうなっては、こうした風潮に抵抗するのはかなりの勇気が要るようだ。それでも、たとえば常識と闘うことを常とするパンクロッカーの方々などは、それをしようとするかもしれない。

ただ私がここで言いたいのは、彼らが言うかもしれないような、

野性味を取り戻せ

とか

自己を解放せよ

などというようなことではない。もっと「身体的」な話だ。

前置きもこのへんにして簡単に言おう。「からだ」は基本的に、いつどんなときも「生きる」ほうにはたらきかけている。もちろん古い部分が役目を終えていくことはあるが、それも「新陳代謝」という言葉の通り、より大きな意味では「生きるため」である。全体として見たときに、からだは決して死を望んではいない。たとえいつかは死ぬことがわかっていても、その最期の瞬間までからだは生き続ける。生きようとしている。

しかし、私たち人類は自らを殺すことができる。これはなかなか稀有な現象だ。他の動物ではほとんど耳にしたことがない。死を前にして身を隠そうとするというような話はあるが、自ら死に急ぐということはおそらくそうないのではないかと思う。私が知らないだけで、仮になんらかの特殊な場合にそんなこともあるのだとしても、その数は人類とは比べものにならないほど少ないだろう。

だとすると、ひとはなぜ自殺するのだろうか? なぜ自殺を「思いつく」のだろうか? それはもしかしたら、私たちに「理性」があるからではないのか?

からだはあなたの価値を疑ったりしない。理性に反して全機能を意図的に停止するようなことはしない。しかし、その逆はある。なぜなら、理性だけが自らの存在価値を疑い、否定するということができるからだ。それはからだの判断ではない。アタマの判断だ。だから、「自殺」はやはりなんといっても「自殺」である。

あなたがもし死を選びそうになったとき、からだに訊いてみるといい。彼らは

死にたい

とは決して言わない。言うのはアタマだけだ。からだが

お腹が減った

というのも、

痛い

というのも生きようとしているからだ。自殺という選択肢を「理性」が考え出すとはなんという皮肉だろう。そこに「理」は一切ない。絶対にない。

ときに理性はからだをなだめ得る。しかし、からだもまた理性をなだめ得る。

死にたい

という理性の「暴力」を止め得るのは、

生きたい

というからだの叫びだけだ。そしてその場合、大方の「常識」に反して、理があるのはアタマではなく、からだのほうである。