「邪」や「魔」(負の霊団)と呼ばれる存在は確かにあるが、彼らも変わり得る

最近ネット上で興味深い議論を見た。

その主題は、「邪」や「魔」(負の霊団)と言われるような存在に関するものだった。一方のひとは、

「邪」や「魔」というような存在は本来は存在せず、仮にいたとしても彼らもまた赦されるべきだ

というような立場で話していて、もう一方のひとは、

ひとを苦しめるような「邪」や「魔」というような存在は確かに存在して、私たちに害を為している。そんな彼らをも赦せというのは、詭弁に過ぎず、偽善的でもあるうえに、極めて有害だ。

というようなことを言っていた。そして両者の言い分は、なかなか噛み合っていなかった。これを受け、この機会にここではこのようなことに対する私の見かたを、いくつかの観点から改めて表明したい。

まず、根っからの「邪」や「魔」は存在しない。なぜなら、「存在」とは本来「喜び」によって育まれるものだからだ。しかし、なんらかの理由で自分の「喜び」を見失った存在や、さらにそこから一歩進んで他者の喜びを阻むようになった存在は確かにあって、それが私の捉える「邪」や「魔」である。だが、彼らの状態はある種「異常」だと言っていい。つまりそれは、彼らの「本来の在りかた」ではないのだ。だから、根っからの「邪」や「魔」は存在しないと言える。

しかし、たとえそれが「異常な状態」であるとはいえ、そのような状態に陥っている「邪」や「魔」は数多い。そして実際に、彼らの想念は私たちにも大きな影響を及ぼすことがあって、その結果他者を苦しめるような行為に走りやすくなってしまうこともある。

だとしたら、やはり彼らは「赦されざる存在」なのだろうか。私はそれはいささか一方的なように見える。なぜなら、私たちはそれぞれ自分の想い・行動に関して「主体性」を持っているので、どんな想いに基づいてどんな行動を採るかの最終決定権は自分自身にあるからだ。霊存在も含めた「他者」にできることは、せいぜい「選択肢」を提示することだけだ。

だから、私たちと霊存在は善くも悪くも、また意識的にしろ無意識的にしろ、「協力関係」にあるのだから、その責任をすべて一方の側である霊にだけ押し付けるのは公平ではない。確かにそのような想念を送るほうにも問題はあるが、受け取るほうにも問題はある。もちろん、逆に受け取るほうにも問題はあるが、送るほうにも問題があるとも言える。

「邪」や「魔」と言われるような存在は、自らの喜びを見失ったばかりか、その腹いせとばかりに他者の喜びを阻むようにまでなっているのだから反省の余地は多い。だからその意味で、「無条件には」赦されるものではない。ただし、彼らもまた「変わり得る」のだから、彼らが変わり「喜び」に生きるようになったのなら、その時点で過去は「学び」と括って「水に流される」べきだ。それが「赦される」ということだ。

ひとも霊も、今まさに、変わらなければならない、変わることができる時期にあることは共通している。そして、本来はそれぞれの「喜び」に生きるのが自然だという点も同じだ。その意味では、「邪」や「魔」と言われるような存在がたくさんいるのが「異常」であるのと同じくらい、私たちの世界も「異常」であるといっていい。だから、ふたつの世界は映し鏡なのだ。

このことをあえて極端な言いかたで言うならば、今は他人のことをあれこれとあげつらったりして争っている場合ではないということだ。そんなことをしているくらいなら、自分を見つめなおし、喜びに向かわせたほうがよっぽどいい。結局、私たちを動かしているのは他の誰でもなく、私たち自身なのだから。

こうしている間にもたくさんの霊存在や肉体人が日々変わろうとしていて、実際に続々と喜びに目覚めつつある。さあ、あなたは、どこへ向かおう?