「真実」だけで嘘をつくこともできるという、厄介な現実と希望

なにが「本当」でなにが「間違っている」のかわけが分からなくて混乱したひとは、なにより誰かから「真実」を教えてほしいと願うことも多い。そしてただひとつの「真実」が掴めれば、それですべての指針がはっきりすると信じて疑わないひとも多い。

だが、話はそう簡単なのだろうか? あなたは、「真実」だけで嘘をつくこともできるという、厄介な現実を意識しているだろうか?

私は「真実を知る」ということについては、いくら追求してもなお謎が残ると考えている。なぜなら、すべての「謎」が明らかになってしまえば、この世界はもはやその大きな意味を失ったことになるからである。

だから、私は心底

どこでもいい、あなたにとっての「聖地」のようなところにあなたが初めて行ったとしよう。そこで、何百年に一度しか公開されることのない「本尊」のよ...

と感じている。そしてさらに言えば、「真実」にはそれだけで嘘をつくこともできるという、厄介な性質を持っていて、私たちの探求は永遠に続けられるようになっている。

例を挙げよう。もし私とあなたがお互いをなにも知らないまま出会って、話の流れで「スピリチュアルな」話題となり、あなたが私にこう問いかけたとする。

知り合いに誰かシャーマンとかいたりする? 陰陽師とか?

そしてそれに私がこう答えたとしよう。

う〜ん、私の母も、父も、親族も、先祖代々までさかのぼってもそんな話は聴いたことないなぁ

そうするとあなたはきっと高い確率で、あるいは無意識に、

(それではあなた(私)もシャーマンではないのだろう)

と判断するだろう。

しかし実際には、私はシャーマンである。

「蓋然性」という言葉がある。それは簡単に言うと、「それが真実である確率がかなり高い」ということだ。今までに、この世に生まれて死ななかった人間はひとりもいない。だから私もあなたも、いつかは必ず死ぬ蓋然性が高い。しかし、厳密に言うならばこれは確実に保証されたものではない。ただ、無数の実例がそれに当てはまっているため、限りなく100%に近い確率でそうなると言っていいだろうということだ。だから逆に、「私は人間であるが不死の存在なので、1000年後もこの肉体のまま生きている」というようなことを言うひとがいたらそのひとは非常に低い確率に挑戦しようとしていると言える。ただし、ここで意外に重要なのは、

そんなことは「絶対に」ない

とは誰も言えないということだ。

私たちに未来を確実に予測することはできない。せいぜいできることは過去の出来事や傾向から「類推」することだけだ。だが、それを「永遠不変の真実」だと考えるのは早計だ。

しかし、ひとは知らず知らずのうちに、自分の今までの情報や価値観の延長線上でものを見てしまうことが多い。そのことを意識することさえ実は難しい。だから、「真実」だけを用いて嘘をつくことも、できてしまうのである。

だから、本当に間違いのない真実だけを知りたいというのなら、それは

「すべてのものは永遠に移り変わりを続けていく」

ということくらいなのではないかと思う。それが当てはまらなくなったときは、この世界が「死ぬ」ときなので、そんなことを考えるのはもはや意味がない。そして、実はこの

「すべてのものは永遠に移り変わりを続けていく」

ということこそが、実は私たちにとって最大の希望なのである。

未来は常に変わりうる。そうでなければ、私たちはなんのために生きているのだろうか?そしてこれは、

「未来は誰にもわからない」

ということと同じだ。だからこそ、私たちには「どんな未来を想い描き、どんな未来を創っていくか」という自由がある。

昨日はひどい1日だった。おとといも、さきおとといも、そのまた前の日もひどい1日だった。しかし、それがすべて真実でも、今日はきっといい1日になる。悪い1日になると言っても、いい1日になると言っても、どちらにせよそれに根拠はない。それならば、いい1日になると思って生きたほうが楽しい。そしてきっと、そうやって日々を積み重ねれば、あなたも私もきっといつか、「いい人生を送った」と振り返られるような人生の終わりを迎えられる。これにも確かに根拠はない。だがこれは嘘ではない。私たちの願いであり、希望であり、それ故に確かな「真実」である。