これから収支を考えるべきは、カネではなく食糧やエネルギーではないのか?

ひとはなぜカネを求めるのだろうか。この問いに対するひとつの素朴な答えは、現代社会で生きるのにはカネが必要だから、だと言える。なるほど、現代社会には「資本主義」が蔓延している。そして資本主義とは要するに「カネ主義」だと言って差し支えない。

だから、そのような現代社会ではほとんどすべてのものがカネを介して取引される。持つカネが多ければ多いほど、より多くの「自由」(選択肢)が手に入る。そして、カネがなければその日の食糧を手に入れるのさえ難しくもなり得る。

しかし、これは考えてみればおかしな話だ。なぜ、原価20円ほどの紙切れが、「1万円」という価値を持つとされ、いのちを育む食糧とさも当然のように交換されるのだろうか? 食糧には価値がある。これは疑いの余地がない。だが、カネに価値があるとしているのは、人間の「取り決め」であり、それ故に一種の「幻想」である。

このことを脇において少し考えてみて欲しい。現代資本主義社会では、「金銭的収入に見合った生活」をするのがひとつの基本原則である。それができなければ「借金」をすることになるが、そんなことをずっと続けていればいずれは必ず破綻する。これはきっと誰もが認めるはずだ。

ならば、今ある食糧よりも、多くの食糧を食べようとした場合、そのような生活は永続可能なのだろうか? なんのことはない。先ほどの「カネ」を「食糧」に置き換えただけだ。しかし実は、こちらのほうがより深刻な問題なのである。

日本の食糧自給率は現在公式には40%弱と言われている。しかし、食糧を生産するためには様々な「エネルギー」が必要で、その「エネルギー自給率」なども併せて考えると、現代日本の食糧自給率は実質数%ほどに過ぎないという見解もある。

それなのに、私たちは今少なくとも「カネさえ出せば」有り余るほどの食糧を手に入れられる。テレビ番組は「グルメ特集」で溢れ、「フード・ロス」の問題は深刻さの度を深めている。

この乖離はどうして生まれているのか。逆に言えば、私たちはなぜこのような生活を維持できているのだろうか。それは、簡単に言って「足りない分を他国から買っているから」だ。そしてその歪みは世界の多くの国での「飢餓」として顕れている。

今までは、そのような他国の現状にさえ眼をつぶっていればそれでよかった。しかし、これからはそうは行かない。増え続ける人口は食糧需要を拡大させ、まずまず激しさを増す気候変動は食糧生産を難しくする。その「現実」は、いずれ必ず「幻想」を打ち破る。

だから、本当は今こそ私たちは、これまでカネの収支に血眼になっていたのと同じくらい、あるいはそれ以上の真剣さで、「食糧」や「エネルギー」の収支に気を配らなければならないのだ。食料が足りないのなら必死で作らなければならない。棄てられている食糧があるのなら即座に見直さなければならない。

あなたに自由になるからだがあるならばしあわせだ。あなたはきっと食糧を作り、未来の自分を助けることができる。私に頑健なからだがあれば間違いなくそうしている。これは思想の問題ではない。文字通り生きるか死ぬかの問題だ。そのことを認識できないのだとしたら、私たちは「生きる力」を失ったということなのだろう。さあ、あなたはどうするだろうか?