予言(預言)を見たときの2つの反応。予言を行う意図と意味

2012年12月21日、あるいは22日。この日が世界の最後の日だと信じているひとがいる。この日で完全に世界が滅亡するという説もあるし、「アセンション」(次元上昇)と結びつけて、その日から世界が大きく変わるという説もある。どちらにしても、これは「予言」(預言)の類である。
こんな話がどこから出てきたのかと言えば、「マヤ暦」という古代文明のカレンダーが、その日で終わっているというところからである。しかし、このマヤ暦そのものに、

この日に世界が終わる

などとは一切書かれていない。また、この文明の末裔の方々も基本的には世界の滅亡を否定している。

そもそも、未来は常に変化し得るものなのだから、ある特定の日に世界が滅亡したり、画期的な出来事が起こったりすることを、事前に誰かが把握できることはまずあり得ない。こんな当たり前のことは、言うまでもないはずである。しかし、ひとは予言(預言)を求め続ける。

だから、予言者のなかにはそのようなひとを利用して、自分が権力や名声や注目を得たいがために、嘘をもっともらしく練りあげて、預言に仕立てるひともいる。しかしそれは、もはや「論外」の輩である。

しかし、それ以外の観点から、予言の意味について考えることもできる。こんな具合だ。

私が、ひどく現実的で、圧倒的な印象を伴った映像(白昼夢・ビジョン)を視たとする。そして、その映像では、12月22日に世界が滅びる映像が映し出されていた。この映像が現実化するのを避けたいなら、私はあえて、この映像を「予言」として世のなかに広めるという手がある。そして、念のためこう付け加えておこう。

こんな夢、実際には起こらないですよね?

そうしたら、世のなかの多くのひとは冷静なので、この映像が現実化することはないと判断してくれる。すると、仮にこの映像を私が視た時点では、これが本当に未来に起こりうるものだったとしても、そこに集まった「そんなことはあり得ない」という想念が、未来を塗り変える可能性がある。こうなれば、私も安心だ。

ただ、今回もそうだが、予言を見た場合、ひとびとが採りうる反応には、「疑う」以外に「信じる」というものがある。さらには、その予言を成就させようとして、それに沿った行動を採ってしまう場合さえある。その場合、その想念によって、予言は実現に近づいてしまう。

しかし、ひとは少なくとも無意識には未来が変わり得ることを知っているので、予言を見たら疑うことが多い。だからこそ、「予期された危険」がその通りに起きることは、それほどない。

それよりも本当に脅威的なのは

「予期しない(不意打ちの)危険」

のほうだ。あの3月11日に来た大地震は、ほとんどの方々にとって「不意打ち」だったし、だからこそ甚大な影響をもたらしたのである。

予言やマヤ暦にまったく関係なく、昨日死んだひともいたし、今日死んだひともいたし、明日死ぬひともいる。だから、今回の騒ぎや終末論、あるいは破壊的な予言にも意味があるとするなら、「日々の大切さ」を再確認する、ということに尽きるだろう。未来はなにがあるかわからないのである。10年後私やあなたがこの世で生きていられる保証はどこにもない。それならなおさら、1日1日を愛おしみ、縁ある方々を大切にし、自分の人生を精いっぱい楽しむことだ。こんなことは当たり前だが、今回のせっかくの機会に、改めて考えてみるのも悪くはない。今回のことをそのようなきっかけにできたなら、マヤの方々も、きっと喜んでくださるだろう。それでは、また明日。