追い詰められた末に生まれるもの。私たちの未来はどうなるのか?

今、私たちの世界が「平安」であると感じているひとはいるだろうか?大多数のひとは、なにかしらの変化、それも「激変」が起きつつあると感じているのではないだろうか?それを認めるか、言葉にするかは別にしても、私たちは今、自分たちのこれまでの価値観や、基盤としてきた常識が、再検討を迫られつつあると気付いているはずだ。

さらに踏み込んで言おう。私たちは実のところ、この世界はこのままでは明らかに存続不可能であり、それを示す現実があちらこちらに現れつつあることを知っている。そして、この社会が抱える「病巣」はあまりにも深く、もしかしたらもう解決不可能なのではないか、私たちはいつか「滅びる」しかないのではないか、と心の片隅では思っている。

この認識は、ぼんやりとしたものであったにせよ、根拠がある。力がある。だからと言って、この認識に沿っても、絶望的な気持ちになる。だから、忘れるしかない。しかし、「現実」は決して、消え去ることはない。

こんな世界で、希望を持つことなどできないのだろうか?私たちは、滅亡に向かっているのか?私たちは、いったいどうすればよいのか?

このような問いを、かつて私は師に率直にぶつけた。すると師は、こう語った。

この世界がこうなっているのには、すべて原因がある。そして、今人類が直面している問題のほとんどすべては、言うまでもなく、人類自身に由来するものだ。だとしたら、私たち人類が、解決できないはずはない

私には、この答えはあまりにも楽観的過ぎると思えた。むしろ、世界の問題はますます深刻化の一途をたどっているではないか?

気付くまで、どうしてもこれではダメだと気付くまで、追い詰められるしかないんだ。これでよいと思い込んでいる間は、変わることができない。問題点に気付くのは、追い詰められたときだ。問題が切実になってこそ、真剣に解決に臨む気が起こる

そう言う師に、なおも私は問いかけた。

ですが、その気付きが起こらなかったら? 気付く前に、本当に手遅れになってしまったら?

すると師は、静かにこう言った。

そのときは、人間はその程度の存在だったということだ。私たちも人間として生まれたのだから、そのときは運命を共にするだろう

しかし、続けてこう言った。

私たちは、どんな状況でも生き続けるしかない。そして生きている限りは、未来への可能性が開かれている。だから、最後の最後まで、希望を棄ててはならない。未来を信じるんだ

あれから、さらにときは過ぎた。さらに様々な問題が次々と目の前に現れている。そしてやはり、その原因はほぼすべて、私たち自身にある。私たちは、「気付けた」のだろうか?変われるのだろうか?師なら微笑んで

変われる

と言うだろうが、私はそこまで楽天的にはなりきれない。しかし、私にも言えることがある。未来はどこか遠くにあるのではなく、今を生きる私たちの、歩みの先にあるということだ。