霊とひとは二人三脚。利用し合うのも、盲従するのもおかしい

他者と助け合う姿は美しい。しかし、相手を「利用」していたり、相手に「盲従」しているような関係は歪である。そしてこれは、ひとと霊存在との関係にも、そのまま当てはまる。

宗教施設に行って、「お願い」をする。

しあわせになれますように……

これからも、見守っていてください……

このような行為自体は現在あまりにも広く行われているものであるし、彼らの行為を頭ごなしに否定する気にもならない。しかし、この行為がいつしかエスカレートしたらどうなるのか。「お願い」が「取り引き」に変わり、相手を「利用する」ようになったら? もうそのときは、微笑んで見てばかりもいられない。

現代の多くのひとびとは、「霊存在」を「人智を超えた力を持つ存在」だと捉えたり、そのなかでも特に力のあるものを「神」という誤った概念として捉えて、過剰に祀り上げたりしているように見える。だから、自分がその力の恩恵を受けられるよう、願いをかけてみたり、「布施」や「賽銭」を捧げてみたりする。それがエスカレートすると、なかには、「1000円も賽銭をやったんだから多少はいいことがあるだろう」とか、「願いを叶えてくれたら信じてやる」とか「いいことがあったときだけ仏壇に線香をあげる」などという考えに至る者も出てくる。

しかし、これらは完全に誤った認識である。だがさらに問題なのは、そのようなひとの想いに呼応して、同じように人間を利用し、支配しようとする霊存在が寄り付いてくることである。このような事情については、過去にも触れたことがあるのでぜひ併せて読んでほしいのだが、

独りでできることは限られている。そんなときは仲間を探せばいい。もちろん、ひとりでなにもできないとまでは言わないが、仲間がいれば心強いものだ。...

ここで改めて強調しておきたいのは、霊存在はあくまでもこの世界に「想い」を流し続ける存在であり、それを受けて「行動」に移せるのは、肉体を持った存在だけであるという事実である。

だから、たとえ霊存在の支援、協力を受けているとしても、「誰と手を組むか」の選択権は私たちにある。だからこそ、その結果もともに受け止めなければいけないのだから、相手はよく選んだほうがいい。自分から「取り引き」を望んでおいてあとでそれを反故にし、相手を「悪霊」扱いするのは間違っている。そもそも、自分の生きかたを決定する「主体」を誰かに譲り渡して、最終的にしあわせになれるわけがない。

結局、霊存在とひとの関係は二人三脚なのである。ひとがいなければ、霊存在はこの世界に対してなんの影響も与えられず、文字通り「手も足も出ない」。一方で霊存在がまったくいないとしたら、私たちは新しい「ひらめき」を得ることが難しくなる。それ以上に、この世界(宇宙)の「学び」の仕組みが成り立たなくなる。だから私には、どちらの世界も実のところ想像さえできない。

霊との関係も人間関係も結局は同じことだ。過度に卑屈になる必要もないし、逆に傲慢になるのもおかしい。ただ相手を愛おしみ、尊重することだ。そしてこの精神こそ、この世界が存在する核心なのである。