アンダーマイニング効果。カネが絡むと、ひとの心は大きく揺れる

私たちは、カネのために生きているわけではない。ただし、資本主義がここまで蔓延した現代社会のなかでは、生きるために最低限必要な「食糧」や「エネルギー」を得るのにさえカネが絡んでくる。たとえ自給自足ができているひとでさえ、家族に「教育」を施すのにカネがかかったりする。だから、本来はなんの関係もない「カネを稼ぐ」という行為と「生きる」ということが密接に結びつけられ、

カネがないと生きていけない。だからカネを得るためには、やりたくないことでもやらなければいけない

となり、本質的な「生きがい」を見失っていく。

このような構造に大きな問題があることを、霊存在も強く指摘していて、未来を構想する私たちに自省を促している。これは前回、

霊に対しての対応法を一般化することはとてもできない。けれども、最初から物腰の柔らかい態度を取っていたにせよ、紆余曲折を経たあとにせよ、お互い...

に書いた。今回はこれを補足する意味で、先日私が初めて知った心理学的知見、「アンダーマイニング効果」を紹介してみたい。いったい、これはどんな現象なのか?

これは、内発的な動機(好きだから、やりがいが感じられるから)に基づいて行われていた行為に、金銭的報酬や表彰などの外発的な動機が与えられることによって、やる気が減少する、という現象を指すものである。

たとえば、無償で行なっていた行為に対して「臨時ボーナス」を与えると、それまで「やりがい」という動機によって行われていた行為がいつしか「カネ」という外からの動機付けによって左右されるようになり、結果的に従来通り無償で行うことができなくなったり、今までのようなやりがいを感じられなくなったりすることが挙げられるという。

この現象は別名、「過正当化現象」とも呼ばれる。自分にとっては見返りを求めずにそれ自体を喜びとして行うことができていた行為に、外からもっともらしい動機(報酬)を与えられてしまうことによって、元々の動機がすりかわったり、自分はそんな見返りのために行なっているのではない、という反発が生まれてしまったりしてしまうというのである。「喜び」という目に見えない動機が、「報酬」という「わかりやすい」見返りによって「過度に正当化」されてしまうのだ。

私自身、この力に屈して苦しむひとを大勢見てきた。なぜ、「好きなこと」を「仕事」にした瞬間、葛藤が起きるのか。それは、それに「カネが絡むから」である。カネがなければ生きていけない。だから、カネを稼ぐためにする行為は「義務」ともなる。自分の選択と意志によって行なっているはずのものが「義務」になってしまったとき、そこには大きな苦悶が生じ得る。

だから、

好きなことを仕事にするのはやめろ

とか

それは趣味に止めておきなさい

といった忠告が説得力を持ってくるのである。

しかし、だからと言って好きでもないことを仕事にしていいのだろうか。好きでもないことをし続けることが「義務」だとするならば、そんな状態は歪んでいるのではないだろうか。

だから、カネの世は終わらせるべきなのである。私たちは、カネを稼ぐために生きているのではない。「なにか」をするために、生きているのである。その「なにか」とは自分自身が選び取るものだ。誰かに強制されて選ばされた<なにか>ではない。自分にとっての「なにか」がなんなのか、よく向き合えもできないうちに<なにか>をさせられてしまい、それを続けなければ生きていけない社会など、間違っている。

ところで、私はこのサイトの文章を、完全に自由な立場で書いている。更新頻度にも、書く内容にも、誰からの縛りも受けていない。だから、とても気楽なのだが、私が唯一気にしているのは、どうすればよりわかりやすく、読み手に伝えられるかということである。これは、私自身の課題なのだが、きちんと向き合っていけば、きっと少しずつはよいものになるだろう。それは、私自身の喜びであるとともに、私に関わってくださっている多くの存在に対する、私の「義務」でもある。