霊存在との対話。生まれ変わりという仕組みについて

「輪廻転生」、あるいは「生まれ変わり」という言葉をまったく耳にしたことがないひとはほとんどいないだろう。ただ、それを信じているひとのなかでも、その仕組みをどう理解しているのかには、けっこうな幅があるのではないかと思う。今までにも生まれ変わりについては何度か触れてはきたが、多くの霊存在がこのことを知ってほしいと訴えてもくるので、ここで改めて取り上げてみたいと思う。

まず言えるのは、

今生で不遇な境遇にあるのは、前世で悪行を行ったからである

真に高貴な魂は、生まれ変わりを終える(解脱する)

いちど地獄に堕ちると、生まれ変わることもできずに永遠に苦しみ続ける

などの言説には、相当の問題があるということだ。というより、それは誤った認識である。

私たちは、何度も何度も生まれ変わる。そして、異なった環境のなかで、無限の学びを続けていく。このことを受け入れることができると、いろいろなことが見えてくる。

そもそも、生まれ変わりがなく、人生が厳密な意味で「1度きり」だとすると、飢餓で死ぬひとと、大富豪の息子として生きるひととの間にある「差」には説明がつかない。安易にどちらがラクだなどと断じるつもりはないが、どうしても理不尽な感覚が拭えない。あるいはたった数日で死んでしまえば、人生の醍醐味のうちどれほどを知り得るのだろうか? たとえ100年生きたとしても、「たった一度の」人生で、人生のなんたるかをどれほど把握できるというのだろうか?

もちろん、死後のいのちを信じないひとも含め、そのように理不尽なものこそが人生であるという捉えかたもあるだろうが、実際はそのような仕組みにはなっていない。

この世界は無限の「選択肢」があるのだ。それが愛である。だから、どうしても生まれ変わりたくないというなら、生まれ変わらなければいい。しかし、生まれ変わりたければ生まれ変わればいい。これが答えである。そして、私たちも自ら選んで生まれてきたのである。それはなぜか。楽しむためである。他者を知るためである。学ぶためである。断じて苦しむためではない。私たちはわざわざ苦しむために生まれてきたわけではない。

数日で終わる生と100年生きる生では、学びの「内容」が異なるのだ。優劣ではない。餓死する生と殺害される生と老衰死する生では、学びの内容が異なるのだ。優劣ではない。

私は餓死したり殺害されるひとにも「因果」があるなどとしたり顔で言いたいのではない。ただ、自分自身が「からだを張って」そのような体験を積むことでしか、わからないことがあるのだ。私たちは善くも悪くも大した想像力を持っていない。自分の顔を殴ってみても、それは自分の痛みであって他者の痛みではない。

だからこそ、私たちは生まれ変わるのだ。わずかしかない想像力を、わずかでも拡げるために。今日は理解できなかった相手の苦しみに、わずかでも寄り添うために。この世界の美しさを、より深く見るために。愛し愛される誰かに、出会うために。

私たちは無限に生まれ変わるのだ。そのなかには様々な生がある。そして重要なことは、たとえ何度生まれ変わるにしても、「まったく同じ生」は絶対にないということだ。だから、人生はその意味においてやはり「1度きり」なのだ。そう考えると、そのどれもが愛おしく感じてこないだろうか?

私は、この時代に霊媒として存在していることで葛藤もしてきた。そうでなくても様々な苦しみを感じ、生きていくことを放棄したくなったこともある。だがやはり、今の私はこのいのちが愛おしいと思う。この世界が愛おしいと感じる。そう思えるようになったのは、霊のおかげでもある。

霊は肉体を離れたからこそ、改めて人生をゆっくりと振り返る。そして私に言う。

羨ましいなぁ。やはり人生は素晴らしい

と。

だから私は言う。

また生まれ変わりますか? 大変なことも多いですが……

すると彼らは、

ゆっくり考えるよ。でも、いずれはきっと生まれ変わるだろう。やっぱり楽しかったんだなぁ。自分で選んで生まれてきたことさえ忘れてしまうけれど。次はあえて、少し過酷な生を体験してみようかなぁ

などと言う。

そこで私が、

いったん決めたら戻れないですからね。過酷な生を選んで苦労しても、あとで私に文句を言わないでくださいよ

と言うと、彼は言った。

そのときは君にも助けてもらうさ

やれやれ、気楽なものである。だがそれでいいのだとも思う。気負う必要はない。私も大した気概を持って生まれ変わってきたわけではない。だが、今生は霊として出会った方々も含め、また多くの方々と会えるだろう。心から楽しみだ。だから私もきっとまた生まれ変わる。この生を、最期まで生き抜いてから。