3つの太陽。これは重大な節目なのか?

10月17日、出雲に「3つの太陽」が出現した。私はこれをニュースで見たのだが、「神在月」のタイミングも相まって、話題となったようだ。

太陽が3つあるように見えたり、逆さまの虹が現れたりする気象を原因とする大気光学現象が島根・出雲地方で同時に起きたことが18日、分かった。出雲では全国から神々が集…

それで私の頭に浮かんだのは、多少なりとも「スピリチュアル」の世界に関心を持っているひとびとの間ではあまりにも有名な、

天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出て来たら、この世の終りと思へかし、この世の終りは神国の始めと思へ臣民よ……

『ひふみ神示』第03巻「富士の巻」 (二二のまき) 第十六帖

という一節である。

さて、これはどう捉えたらいいのだろうか? ついに「この世の終り」がやってくるのだろうか?

私は常々、「預言」の類からは一定の距離を置いてきていた。未来のことは簡単に予測できるものではない。それは変化に富み、いくつもの分岐がある。「2012年問題」に関して一部のひとが主張していたように、ある日突然世界が従来の世界と断絶するほど変わるということはあり得ない。この世界は、「常に変化し続けている」のである。

だから私は、冒頭のこの一節を耳にしたときも、アタマの片隅に置いたくらいで、さほど深刻には考えていなかった。「太陽が二つ三つ四つ出てきたら」という現象が「必ず起きる」とは、まったく思っていなかった。「起きるかもしれないし、起きないかもしれない」というくらいの認識だった。それに現代科学から見ると、今回のことは「珍しい気象現象」に過ぎない。

しかし今回の現象は、タイミングと場所から見ても確かに「意味ありげ」だし、「預言が現実化した」と捉えるひとがいても不思議ではない。だとしたら、問題はこの次だ。「この世の終り」「神国の始め」という言葉を、どう捉えたらいいのか?

まずどんなものでもそうだが、霊存在の言葉を伝えるという行為を考えたとき、そこには必ず、「霊存在の考えかた」と「霊媒の考えかた」が作用している。江戸時代のひとたちに「パソコン」と伝えても、なんなのかは理解されない。それと同じく、霊媒行為には当然、そのときの「時代背景」も影響している。だからそれらの言葉が意味するところはなんなのか、ゆっくりじっくり自問自答することが必要である。

いろいろな立場に遠慮したり言及したりしているとキリがないので、いつものように私の考えかたをざっくり書いていくが、私にとっての「神国」とは「日本が中心の世界」でもなければ、「絶対者が絶対善によって統治する世界」でもない。ただ「神」=「自然」=「はたらき」をみんなが意識し、身近な「他者」や「地球」、そして「自分自身」を慈しみ、尊重できる世界である。なぜなら、これらこそがなによりの「神」だからである。

「この世が終わる」というのはなにも

人類が滅亡する

とか

アセンションした新たな(別の)地球で暮らす

とかではなくて、「この世の価値観が終わる」、つまり「価値観が根本から変わる」ということである。価値観が変わるのだから、当然世界が文字通り、一変する。

では、これらは「これから」起きるのか? いやそれは「既に起きている」のだ。今回の現象は、「これから変化しますよ」という予告ではなく、「既に変化していますよ。意識していなかったひとは、気をつけてみてくださいね」という「確認」であり、その注意を促すために、それなりの影響力のある言い伝えを利用した霊存在の「仕掛け」なのである。

いつ変わるのか? いつ「楽園」が訪れるのか? とあくせくしているひとは、少し立ち止まってみるといい。地は動き続けている。雲は流れている。この星はあまりにも美しい。私は今回の現象を写真で見たにすぎないのに、強く感動させられた。このとき、確かに「神」は私のそばにいたのだ。私が感動できる心を持っていることこそが、なによりの神の顕れなのだから。