「発言する」ということは、どういう意味を持つのか?

言葉とは、そのひとの排泄物なのだよ

という言葉を聴いたことがある。言い得て妙だと思う。私たちは、意識しているかどうかに関わらず、常にありとあらゆる大量の情報を受信し続けて生きている。もちろん、この「情報」には「想念」も含まれる。だから、その情報のなかで溺れてしまい、なにが真実なのか、なにが自分にとっての喜びなのか、自分がなにを考えているのかさえ、わけがわからない状態になっているのである。

大金持ちになるのが夢だ

というのはまだいい。ただしその「金の遣いかた」をイメージしたとき、周りの「常識」や「固定観念」に固められたものしか浮かばないなら、それこそがはるかに深刻な問題である。言い換えれば、私たちがしあわせを感じられないのは金がないからではない。

「正しい金の遣いかたがわからないから」

なのである。それが、「金」を「カネ」に堕落させ、資本主義のなかで生きる私たちの気力を奪っている。

話を「言葉」に戻そう。言葉を発するということは「発信」である。受信するばかりの情報を整理し、自己の「選択」を表現し、それに力を与える行為である。「発言」と「発現」が同じ音であることや、言葉を「編み出す」という表現には感嘆するしかない。私たちは「考え」そのものを創り出しているわけではない。「考え」(思考)の源は無数にあり、私たちはそれをただ「選択」しているだけである。そして、その「選択」という過程こそが、なにより重要なのである。だから、冒頭の言葉に私はこう付け加えたい。

言葉とは、そのひとの排泄物なのだよ。それを見れば、そのひとのなかになにがあるかがわかるのだから

私自身しばらくこのサイトから離れていたが、今回自身の思考を改めて整理することができてよかった。やはり、対話は偉大である。ちなみに、「沈黙の行」をするかたもいるが、彼らは沈黙のなかで「宇宙」と対話しているのである。「宇宙」とは「自己」でもある。だから、あなたもたまには誰かと、あるいは自分自身と対話する時間を持つといい。現在は、その気になれば多くの手段が提供されている。ただ、対話も技術であることは付け加えておこう。もちろん私もまだまだ未熟である。ただ、言葉や対話の重要性に気付くことができれば、あなたにもきっと、活力が湧いてくるだろう。