自覚しなさい!
という言葉はよく耳にする。私自身もよく言われてきたものである。しかしこれはあまりにも便利な言葉である。たとえば「社会人として」「親として」「お兄さんとして」「先輩として」「親のすねかじりとして」の「立場を自覚しろ」と言われるわけだが、これは言うまでもなく「他者に対して向けられた言葉」であり、実際には
あなたのせいで私が迷惑を被っているので、改めろ
という批判を述べているのである。
だが、本来「自覚」とは「自ら覚る(さとる)」ということであり、
「自分が何者であるか、自分が今なにをしているのか、自分が今どこに向かっているのかを『自発的に認識する』こと」
である。その意味で、冒頭で例示したように、どのような自覚を持つかを他人に押しつけられるものではないのは明らかである。だから、この言葉を「他者に向かって」言うのは大きな間違いなのだが、これを「自分に対して」言えたなら、あなたは自分を大きく変える、第一歩を踏み出すことになるのである。
精神修練法のひとつに、
「自分が今なにをしているか、ひたすら言葉にし続ける」
というものがある。たとえば今の私なら、
私は書いている、書いている、書いている……
と言い続けるというわけである。しかしこれを事情を知らない他人に見られると面倒な誤解を受ける可能性もあるので、心のなかで言い続ける(想い続ける)というのが実際的だ。この行為の効用のひとつは、雑念を避けられるということである。たった今の行為についてだけ考えるのだから、「将来の不安」も「過去の後悔」も入る余地がない。いわゆる「中今」(「いまここ」)を生きられるのである。
それに考えてみれば、私たちは
「自分がなにをしているのか」
について、実際にはほとんど知らない(眼を背けている)のである。たとえばご飯を食べているとき、これが自分のエネルギーとなり、いのちをつないでくれているということを意識することも、
食べるというのは「相手のエネルギー(想い)を取り込む」ということだ
という事実を認識することもほとんどない。もし本当に意識していれば、自分がなにを食べるかについてもっと考えないはずがない。

あるいは私たちは、
「誰かを罵倒する」(批判する・陰口を叩く)
と言う行為がなにを意味するのかをほとんど知らない。もし、
「そのようなことをし続けると相手が病気になり、場合によっては死に至る」
ということを本当に知っていれば、すぐにでも言動を改めなければいけないと気付くだろう。また私たちは、
「生きていくために嫌なことでも我慢して続ける」
ということが、どんなことなのかもほとんど知らない。
そうしている間にも今生の寿命はどんどん短くなっている。同じ人生は2度とない。このまま行けば私はきっと後悔のなかで死ぬことになるだろう。それに実際には、人生にはいろいろな道があるんだ
ということを本当に知っていれば、あなたはすぐにでも、新たな生きかたを模索し始めることだろう。
どんな生きかたがあなたにとって喜びなのかは、あなたにしかわからない。だが、その前に「自分が今なにをしているのか」を知らなければなにも始まらない。そのことに気付いたとき、あなたはもう、大きく羽ばたいているのである。

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