運命の力を受け入れたうえで、未来を創っていく

あなたは「運命」を信じているだろうか? もし信じているとしたら、「どこからどこまで」が運命だと思っているだろうか?あるひとたちは、

すべてが運命によってあらかじめ定まっている

と考える。そのひとたちにとっては、人生とは「筋書きの定められた劇」のようなものであり、私たちは「役者」である。だから私たちにできることは「筋書きに文句を言わず淡々と演じる」ことであり、そうすることで心の平安を得られるということになる。そうなると世界で起きている「飢餓」や「戦争」といった悲惨な事態が起きる「責任」は<神>にあり、なぜそんなことが許されるのかといった<神の意図>については、

魂を成長させるための「神の試練」なのだ

と考えるか、

究極的には私たちにはわかり得ない

と言うしかなくなる。だから、「神(の善意)を信じる」ことで救われるのである。

実際このような考えかたは、「絶対神」(一神教)の世界観のなかではかなり有力なものである。ここで、

しかし神は求めれば救ってくださるではないか?

というような疑問が出てくる場合もあるのだが、これに対しては、

神自身だけは運命を変えることができる

神を求めた結果救われることも含めて運命なのだ

といった「解答」が用意されている。あるいはここから派生して、

人間には「事象」を変えることはできない。しかし、起きたことに対する「感情的反応」だけは選ぶことができる

というような捉えかたもある。だからこそ、「感情」を正しく扱えるひとが「聖者」であり、運命の絶対性を受け入れられないのが「我」であるということになるのである。

ここまで言われると反論するのはかなり難しいように見える。しかし、「本当に」運命は絶対なのだろうか? <神の意図>がわからないからと言って、自分の「望む未来」を願うことは、分不相応で傲慢な態度だということなのだろうか?

私はあるときこのように考えた。

もし運命が絶対なのだとすると、文字通り「神はすべてを知っている」ということになり、「予想外の結果」(謎)というのはないということになる。しかし、謎がないなら成長はない、つまり、「喜び」がないのである。それはおかしい

この「直感」に従って、私はこの「絶対運命論」の世界観に与しないことに決めたのである。それに、私も今まで多くの霊に接してきたが、

私はすべてを知っている

と言った存在には、未だ出会ったことがない。

ただ、だからと言って安易な「引き寄せの法則」の解釈のように、

想ったことはすべて実現する

などというつもりもない。なぜなら世界は多くのひとの「想念の集合」から成り立っているので、私だけの思い通りになるわけがないのである。端的に言えば、「戦争や飢餓があったほうが嬉しい(都合が良い)」という立場の人々もたくさんいるのである。このような事実から目を背けていては、いつまでも問題は解決しないだろう。ただ、私たちが「真に願っていること」はいつか必ず叶うので、戦争も飢餓もいずれ必ず無くなるのである。そしてそれは、私の生きている間に起こると、私は確信している。

私たちは「長年の癖」により、条件反射的に数多くの選択をしている。だからある程度の霊になれば、かなりの確度で未来を「予測」できる。一言で言えば、現在世間一般に<神>と呼ばれているのは、「巨大な情報センター」なのである。これを「アカシック・レコード」などと呼ぶ方々もいるが、同じことである。つまり「多くの情報を的確に扱えれば、それだけ精密に未来を予測できる」ということであり、普通は人間よりも霊のほうが多くの「情報」を持っているので、「未来をすべてわかっているように見える」というだけなのである。しかし、運命は絶対ではない。変えられる。

さらに言えば、「運命論」という考えかた自体も、ある種の「必要性」によって私たちに与えられたものである。運命論を知ることで、私たちは「自分だけの力」の限界を知り、「謙虚さ」を学ぶことができる。世界が自分を中心に回っているわけではないことに、私たちは嫌でも一度気付かされる。しかしだからと言って、私たちは「無力」ではないのである。「傲慢さ」から「謙虚」になるのはいいが、「卑屈」になる必要はなかったのだ。

「運命」の別名は「他者」である。それは確かに非常に強力だ。だから私はひとりでは世界を創れない。しかし、「他者」とともに、喜びに向かって歩むなら、私たちは昔自分が<神>と呼んでいたものの力を得ることになる。そのときこそ、あなたは自分が「世界の中心」にいたことに気付くだろう。そしてそのとき、宇宙はまた一段と芳醇さを増すのである。