「霊媒師の最期はみな悲惨である」というのは本当なのか?

現在はひと昔前ほどではないが、それでもときどき「霊能者」と呼ばれるひとがメディアに登場している。しかし、世間の関心の移り変わりは激しいようで、一時期もてはやされたひともいつしか忘れられ、気付いたらまた違う「旬のひと」に変わっている。その結果、

「かつては都内の一等地に事務所を構え、高額の相談金を取っていたのに、気付けば事業も縮小し、身なりまですっかり変わっていた」

などということになることもある。それを見て、あるひとたちはこのように言う。

やっぱり、霊なんかと関わるとろくなことにならないんだよ……

また、あるひとからこのようなお話も聴いたことがある。ある日占い師に、

あなた、霊感があるでしょう? 私と協力して、占いの仕事してみない?

と言われたそのひとは、

そんな仕事をしたひとで、しあわせに死んだひとを知ってますか?

と問い返した。するとその占い師は、

それなりに楽しい時期もあるよ。最期は、あんまりしあわせにはなれないかもしれないけど……

と言ったのだという。もちろんそのひとは、その仕事の誘いを断った。

こんな話を素直に聴くと、

霊媒師などになってもろくなことがない、やはり霊は恐ろしい

と思ってしまうのも無理はないと思う。だが、その印象は本当に正しいのだろうか?

霊媒師の最期はみな悲惨である

というのは本当なのだろうか?

そもそも、このような言説の背景には、霊媒師への「嫉妬」(憧れ)と「恐怖」があるのではないかと私は見ている。嫉妬(憧れ)とはつまり、「他人が持っていない、『特別な』力を持っていること」に対して、

自分にもそんな力があったらいいのになぁ……

と思うものである。「恐怖」とはその裏返しで、「自分にはない力を持っている」相手に対する恐怖である。たとえば「想念を読み取れる」と言われると、

じゃあ自分の秘密も過去も、今の考えもすべて読み取られてしまうのか?

と思われ、「嫉妬混じりの恐怖」を受ける。考えてみれば「想念」とは最大の「個人情報」でもあるからである。

ただし、私に関して言えば、私は相手の「秘密や過去」あるいは「名前や生年月日」といったものは一切読み取れない。ただ、相手の「想い」を感じ取り、必要に応じて周囲の協力を得ながら、相手が喜びを見出す手助けができるということである。そして、これは単に、修練と学びに裏打ちされた「技術」であり、「特別な力」ではない。そして、相手の機微に触れることであるため、当然「濫用」もするべきではない。実際には、相手の過去や秘密を読み取れる方々もいるが、そのようなひとは私以上の「責任」を負っているのである。このようなことを知らずに、安易な「憧れ」を口にするのは早計である。

あるいは、

霊媒師の最期はみな悲惨である

と言われる原因は霊媒師自身にもあると言える。つまり、与えられた「役割のための力」を傲慢に使い、自分を「特別だ」と思い込み、そうした態度で生きていれば、その結果それを見直すための「学び」が与えられるのは自然の流れである。もしかしたらそれは、周りから見れば、あるいは渦中の本人自身にとっても、「悲惨」に思えるものかもしれない。

だから、このような話を聴いて、私自身がひとりの霊媒師として思うのは、「この役割をきちんと果たすことの難しさ」である。しかしそれは逆に言えば、これが「学び深い、やりがいのある役割」であるということだとも感じている。そして、なにより自分自身しあわせな人生を送ろうと思っている。その過程で紆余曲折や波乱があるのはみな同じである。それに、

現代は9割以上のひとが病んでいる

と師も言っていた。だから実際には、霊媒師に限らず、後悔の念を抱きながら死んでいくひとのほうが多いのが現代だと言ってもいいだろう。

だからこそ、私は

「霊媒師でも、こんな時代にあっても、しあわせに生きることができる」

ことを、自分自身の人生を通して実証したいのである。それは間接的にはあなたのためでもあり、これから生まれる多くの霊媒師のためでもあるが、なにより私自身のためでもある。楽しんで生きるために、あなたも私も生まれてきたのだ。他のひとの評価はどうであれ、自分自身が

悲惨だった

と思うような人生を送るのはあまりにも哀しい。だから私は決意した。人生を愉しもうと。その結果はいずれ自分自身がいちばんよくわかることになるだろう。だからまだ結果が出ていない私が言うのもなんなのだが、良ければあなたも、自分の人生を愉しいものにすると決意してみてほしい。それぞれにその結果が出たとき、お互いに笑っていられることを願っている。そして実はその願いが叶う確率はかなり高いと、私個人的には、確信しているのである。