生殖を目的としない性行為は、間違っているのか?

私たち人類は、無性生殖ではなく有性生殖をする生物である。つまり男女(雌雄)が交わることによって新しい生命が生まれることになっている。ある程度複雑な仕組みを持つ生物では、この方法は広く一般的である。その結果、生殖のためには基本的に「性交」が不可欠なので、人類にとってもそれは大きな意味を持っているのだが、人類は「性交」を「性行為」へと昇華し、他の生物よりもはるかに多彩な拡がりを持つものへと変化させた。それは当然「避妊法」も生み出したので、私たちは生殖を目的としない性行為を行うこともできるようになった。

しかし、このような性行為について、

生物として間違っている

慎むべき欲望である

というように否定的に考える方々もいる。特にこれが「同性愛」の問題にまで及ぶと、それを許容できないと言うひとの数はさらに増える。しかし、生殖を目的としない性行為は、本当に誤った、恥ずべきものなのだろうか?

結論から言えば、私はその性行為が生殖を目的としていないからと言って、それを恥じる必要性はまったくないと考えている。さらに言えば、性行為はとても「人間らしい」ものであると思っている。私たちは個体としては決して強い生物ではない。だがだからこそ、目的のため周囲の方々と力を合わせる、「コミュニケーション」を重要視するようになった。そして私たちがコミュニケーションなしでは生きられないことは、すでに明らかである。乳児をひとりにして誰とも交流させないでいると、たとえ栄養と睡眠を与えていたとしても、少しずつ衰弱していき、やがては死に至る。

私たちは自分が「成長した」と思い込んでいるが、私たちは乳児のころよりも「素直」でないだけで、誰ともコミュニケーションを取れない状態に置かれれば確実に弱っていき、いずれは本当に死んでしまうこともあり得る。だから私たちは、普段自覚している以上に、コミュニケーションを根源的に渇望しているのである。

そして、性行為とは究極のコミュニケーションである。肉体的にも精神的にも、すべてを脱ぎ棄てて相手と交流したとき、ひとりではたどり着くことのできない境地に至る。もちろん、その相手との間に愛情があるほうがいいのは間違いないのだが、それを求める想いはあまりにも強力なので、ときとしてたとえ二番煎じの擬似的で一時的なものであっても、私たちはそれを求めてしまう。その根底にあるのは、

理解されたい、愛されたい

という願いであり、同時に

愛したい、理解したい

という願いでもある。そして実際に、性行為を通じて私たちは、最も強烈なかたちで相手を受け入れ、理解するのである。

また、他の生物と比べて、人間ははるかに長い時間性行為を続ける。性行為中は最も無防備になってしまうので、「生き残り」だけを考えるならばそれはできるだけ短い時間で終えたほうがいい。ところが私たちは、単に「受精」だけを目的とせず、ありとあらゆるかたちで「触れ合い」を行う。逆に、相手との性行為がいかに「即物的」でないかを見れば、お互いの愛情の深さを推し量ることができると言ってもいい。愛していなくても「性交」は行えるが、終わったあと相手に触れ合い、

愛してる

と伝えることはできない。「非効率的な行動」のなかにこそ、愛が宿るのである。

私たちにとって、性行為は最も大切なもののひとつである。冷めた目で他人の行為を見れば「滑稽な行為」なのだが、当事者の間ではこれほど美しいものはない。たとえそれが同性愛だったとしても、なぜそれを私が否定できるというのか? 同性愛者はどんな文化にも一定の確率で存在すること、同性愛者の脳のはたらきは異性愛者のものとは多少異なることも少しずつ確かめられてきている。すべての愛がそうであるように、それは

「自分ではどうしようもない、理屈を超えたもの」

なのである。それに同性愛者でなくても様々な事情により「生殖」を行えない方々はいるが、彼らに子孫は残せなくても愛は残せるのである。

世界には様々なひとがいて、様々なかたちの愛がある。そして愛を美しいというなら、その過程と極致にある性行為が美しくないはずがないではないか? 他者の性を否定することは誰にもできない。そしてその多様性のなかにこそ、いのちの神秘が隠れているのである。そしてそれに気付くことが他でもなく、自分自身を認めて受け入れ、世界を愛することにつながるのである。

コメント

  1. カナメ より:

    あけましておめでとうございます!カナメです!かなり前の記事に失礼します

    同性愛に関しては本当にその通りだと思います!男女の夫婦でも

    子供のいない人達はいます、その人たちが夫婦として成り立たないなんて事は

    絶対にないですよね

    しかしそこでちょっと質問なのですが向こう側さんは

    「ときとしてたとえ二番煎じの擬似的で一時的なものであっても」

    と、ありましたが、やはりお互い愛する者同士でないと絶対ダメだと思います

    それに幾らその人を「愛したい、理解したい」と思っていても極論を言ってしまえば
    力づくで肉体をレイプでもOKなのか?と言う事になってしまいませんか?

    (一昔前の少女漫画によくあった主人公を愛するが故にメインヒーローが主人公を押し倒して・・・・・というのがよくありました)やっぱり肉体が結合しててもそういう行為で魂が離れては絶対によくないと思うんです

    それといろんな愛の形があるといっても私は小児愛は絶対に無いですね、むしろ反対します!

    同性愛反対派はロリコンなどの小児愛を引き合いに出して

    「同性愛がOKならそっちもOKだろ!?」

    なんてナンセンス以下の異常な事を言い同性愛を反対しますが当たり前です!

    同性愛はだいたい同じ年の者同士が両人の合意を得てる場合が多いですが

    後者の小児愛はそうじゃない場合がほとんどです、力づくか無知に付け込んで・・・のケースが
    ほとんどじゃないかと

    また実は既婚者(おまけに子持ちの)に言い寄られて・・・というケースでも、なんだかなぁです

    この場合幾ら言い寄った方に全責任はあれどその人の配偶者(や子供)からすればその人を寝取った
    悪者です、幾らその2人の仲が覚めていてもあっちが別れる前に行為に及ぶのもどうかな?と

    そこら辺はいかがお考えになりますか?正月早々長文失礼しました・・・

    • Dilettante より:

      カナメさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、「両者の合意」が性行為にとっても大切なものであることは私の考えと同じです。

      そのうえで私が

      「ときとしてたとえ二番煎じの擬似的で一時的なものであっても、私たちはそれを求めてしまう」

      と書いたのは、たとえば現在には様々なかたちでの「性的サービス」を提供する場がありますが、それが両者の愛に基づく「最善のかたち」でないことを知りながらも、そういったものでもいいから得たい、触れ合いたいと願うのは、私たちが「寂しさ」を抱えていることなど、様々な要素を示唆しているということを思ったからです。既婚者との関係といったようなものも、そのような点から見ると、少なからず共通する根があるのではないかと思います。

      いずれにせよ、私たちが自らの感情とどう向き合うか、その態度は必ず社会にも反映されています。ということは、今の私たちの社会を見直すうえでは、そういったことも含めたすべての要素や背景から眼を逸らすことは決してできないということです。

      そしてもちろん、その「答え」は私だけでなく、みんなで考えた結果見出されていくものだと思いますので、私自身もずっと考え続けていきたいと思います。これからもよろしくお願いします。