「自分がなにから構成されているのか」を知れば、大切なことが見えてくる

なにかをよく知りたいと思うなら、よく観察することが必要だ。そして私たちは、喜びを持って生きるためにもまずは「自分自身」をよく知らなくてはいけない。

私とはなにか?

という問いは永遠である。だが完全な答えは出なくても、真剣に自分を「観察」してみると、素朴だが大切なことが見えてくる。だからとりあえずここでは、

私とはなにから構成されているのか?

と考えてみよう。このことはこれからのあなたの生きかたを考えるうえでも、意外なほど重要な視点になり得るからである。

私たちは「肉体に宿る霊」である。「ひと」を「霊止」(霊留)と書くのはこの考えかたから来たものだ。このどちらかが欠けても私たちはこの世で活動することができない。だから、私たちを構成しているのは大きく言えば「肉体」と「霊」(精神・魂)であるといえる。

そこからさらに掘り下げていくと、肉体を構成するうえで大きな役割を果たしているのは「食べもの」である。あなたは文字通り「あなたの食べたもの」で成り立っている。それに気付いたら、自分の食べているものに気を遣うことの大切さがわかると思う。「ジャンクフード」の「ジャンク」とは「ごみ」のことである。だから

私はジャンクフードが好きなんですよ〜

というのは

私はごみを食べているんですよ〜

ということとほぼ等しい。少なくとも自分で「ジャンクフード」だと思えるようなものを食べるのはやめたほうがいい。

かといって、誰もが独力で自給自足の環境を築き上げ、理想的なものを食べられるわけではないのもわかる。私自身もそんなことはできていない。それに有機食品は高価なものが多いので、そうそうすべて揃えるわけにもいかないだろう。それならばせめて、「ゆっくり食べる」ことを心がけるといい。それは自分がなにを食べているのかを意識すること、ひいてはいのちに感謝することにもつながるし、よく噛んで食べることは様々な恩恵がある。たとえば唾液には解毒効果もあることが知られている。

そうは言ってもゆっくり食べる時間がない

と言うのなら、そもそもそんなに食べる必要がないことに気付いてほしい。私たちが3食30品目食べなければ健康を維持できないというのは、率直に言って幻想である。私たちはむしろほとんどが「食べ過ぎ」であり、その結果自ら自分のからだを傷めている。

私自身はと言えば基本的に1日2食であるし、完全な菜食(ヴィーガン)ではないが、進んで肉類などを摂ることもない。それでもそのせいで健康に重大な問題をきたしたことはないのである。むしろ、ときどき会食などで知らず知らずに普段より多く食べてしまったりすると、その後急激な眠気に襲われて会話が楽しめなくなりそうになり参ってしまう。「消化する」ということはからだにとって大仕事であるということがありありとわかるのである。

だからといって無理に食事量を減らしたり断食したりする必要はないが、ひっきりなしに食べていたらからだが休まらないうえに、アタマが回らない。むしろ私個人的には、重要な判断を下すときには意識的に断食するようにしているくらいである。と言っても長くて3日(72時間)程度のものだが、からだの補修にはなるし、余計なことは考えられなくなるので、自分の「いのちの原点」を意識することができると感じる。あらゆる意味で、「食べもの」があなたにもたらす影響の大きさは計り知れない。

また、私たちの「霊」(精神)という観点から見ると、私たちは絶えず自他の「想念」に影響されて生きている。理想的には他者の想念に流されず、いつもじぶんの「喜び」に軸を置けていればいいのだが、私は未熟者なのでそうはいかない。ただ、自分でもたとえば満員電車に乗っているときと川沿いを散策しているときとでは明らかに「気」が異なることはわかる。つまり、イライラしているひとが多いところでイライラしないのは難しい。だが逆に、穏やかな環境に行けば荒んだ心も確かに癒やされていくのである。

どこへ行ってもあなた自身が変わらない限り根本的な問題解決にはならない

というのも一理ある。しかし、環境を変えれば少なからずあなた自身も変わるのである。だからその意味において、どうにもならない八方塞がりに陥ったと感じたときは、住む場所を変えたり職場を変えたりすることを検討するのも価値があると私は思う。

あの場所では生きられなくてもこの場所でなら生きられる

というのは確かにあるのだ。問題なのは世界を狭く捉え、

これができないなら自分はもうダメだ

と思い込んでしまうことだ。それは人間関係などにも言えることである。世界は広い。あなたが思っているよりもずっと広いのだ。そして私たちは、本当に自分にとって喜びであることがそこにあり、本気になれたなら、今とは大きく異なった環境の下でも、意外と生きられるものなのである。このことを、ぜひ考えてみてほしい。

ここまでのことを簡単にまとめるなら、私たちは「食べもの」と「環境」に大きく左右されて生きているということだ。もちろん、実際にはこれ以外にもいろいろな要素が絡み合っているとはいえ、このふたつを見ればそのひとの大まかな「傾向」が読み取れるのも事実だ。だから、自分の生きかたを深く考えてみたいなら、まずはこのふたつを見直してみるのもいいかもしれない。

自分はなにを食べているのか?自分はどこにいるのか?それは本当に自分が望むものなのだろうか?

と、よく考えてみてほしい。なにかをよく知りたいと思うなら、よく観察することが必要だ。そして興味深いことに、「観察する」という行為には実のところ、

「観察対象そのものを変化させる」

という作用があるのである。このことに気付いたとき、あなたは大きな力を手にすることになる。しかしなんのことはない、それはもともと、あなたのなかにあったものなのである。

コメント

  1. Rマン より:

    ここ1年偏食が激しく、肉を食う事への罪悪感も一層強まっている為、最近体調を崩しがちです。

    そして過去の狭苦しい環境を思い出し、「あの人に嫌われてしまった自分には生きる価値が無い」と、未だに思い込む瞬間があります、

    こういった問題に心が囚われ、更に視野が狭くなっていましたが、この記事を読んだおかげで希望が見えてきました。

    しかし

    「観察する」という行為には実のところ、「観察対象そのものを変化させる」という作用があるのである。

    という一文には心を打たれました。

    私の傍には「観察」するという姿勢を何よりも大事にしている霊が何年も前からいて、絶えず私の心の状態を視てくれているのですが、彼女はこの真実を知っていたのかもしれません。

    守護霊が常に我々の心を観察しているのも、その想いが必ず届くを知っているからなのでしょうね。

    • Dilettante より:

      Rマンさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      あの人に嫌われてしまった自分には生きる価値が無い

      ですか。そういうふうに思うのは、相手が自分にとって大切な存在だということの証でもあると思うので、それはそれですべてを否定する必要はないのではないかと思います。

      ただそのうえで、

      今は嫌われてしまっているとしても、いつかにはお互いの理解が深まって、またお互いを大切にできるようになれるかもしれない

      とだけ思っておけば、自分に生きる価値がないとまでは、自分を追い込まずに済むのではないかと思います。

      「本当に嫌うべき相手を嫌っている」

      ということは、実際にはほとんどないと思いますし。というか本当には、嫌うべき相手なんて、どこにもいないのかもしれません。

      「観察する」

      ということにはいろいろな効能があると思っている私ですが、相手の好いところを見つけるのにも、相手を観察することが必要なわけなので、やはりそういった意味でも、観察にはいろいろな意義があるのでしょうね。

      そしてそれは、

      結局のところ、相手のためにどれだけの時間と労力を割けるか?

      ということでもあると思うので、あなたをそうやってずっと観察してくれている彼女や守護霊さん(もちろん、広い意味ではどちらも守護霊さんですね)にあなたが愛されているということは間違いないと思います。

      そしてそうであるならなおさら、あなたに生きる価値がないなんてことは、あり得ないと言い切れると思います。

      年の瀬にもいろんなことはあると思いますが、ともかくそんなことを、ゆっくり噛みしめてみていただけたらと、そう思っています。