私たちの人生は直線ではなく、断絶と飛躍のときがある

私たちは普段、「明日」を「今日」の延長線上にあるものとして捉えがちである。確かに、たった1日の単位で見ればあなたの生活はほとんどなにも変化していないように見えるかもしれない。しかし実際には、あなたが意識していなくても世界は日々刻々と変化を続けているのである。その変化が明らかに現れたとき、私たちはそれを(たいがい後から振り返って)「人生の転機」と呼ぶ。その転機はそのときの自分にとって必ずしも喜ばしいものとは限らない。しかしその転機と直面したとき、あなたは昨日までの自分とはまったく違う自分になってしまったかのように感じる。このようなことは誰にでも起きることだ。つまり、私たちの人生は直線ではなく、断絶と飛躍のときがあるのである。

私たちは日常的に多くの場面で「十進法」を用いて生活しているが、人生においても「10代」「20代」というように10年単位の分けかたがよく使われている。これは実際に49歳と50歳で大きな違いがあるかどうかというよりも、むしろ「10年」という単位で人生を振り返ったとき、いかに様々なことが変化しているかを示唆している。1日1日では見落とされる変化が、10年単位で見ると明らかに見えてくるのである。そしてそのなかでも後の人生に大きな変化をもたらすことがあったときを、私たちは「人生の節目」とか「人生の転機」と呼ぶ。面白いことに、そのような転機は少なくとも10年に1度は訪れるのである。それは人間関係の変化だったり、自分の体調の変化だったり、自身の嗜好の変化だったりするのだが、多くの場合それは複合的に訪れる。それはある意味で「過去との断絶」である。昨日の延長線上には描けない今日。今までの経験を頼りに明日を予測できない状況。それが不意に訪れることがある。しかし、あとから振り返ってみると、それが後の「大きな飛躍」のために必要なことだったとわかるのである。その「飛躍」とは必ずしも「社会的成功」を意味しない。だが、そのような経験によって私たちは、より深く、熟成させられるのである。

そのような変化は、しばしば過去の自分との「矛盾」を引き起こす。現代社会では、主張が一貫していること(ぶれないこと)が大切だとも言われている。確かに、毎日毎日、相手によって言うことや行動がコロコロ変わるようでは困る。しかし実際に私たちは、矛盾や葛藤を抱えながらも、なんとかそれに折り合いを付け、日々悩みながらあらゆることを選択して生きている。そんな過程とその結果生まれる変化こそ、生きている醍醐味でもある。私自身もつい先日、

宇宙飛行士になりたいです 看護師さんになりたいです こどもはよくこんな将来の夢を語る。しかし私たちは、「大人」になるに従って「社...

と書いておきながら、以前には

過去を振り返り懐かしむのは、死んでからでも遅くはない。……過去ではなく、未来に想いを馳せ、生きてみようではないか。

「古き善き時代」という言い回しがある。そこでは現在よりも「過去」の時代に、より善い世界があったという主張がなされている。キリスト教における「...

とも書いていたのである。

後者の文章を書いたとき私の念頭にあったのは、

昔は良かった。今は世も末だ

というような極端な諦めと懐古主義への懐疑であり、前者のときにあったのは

前へ進め、前へ進め

という短絡的で盲目的な思考への懐疑であった。だから論点はまったく同じではなのだが、やはりこの両者の記事を書く間に、私の思考が多少なりとも深まったことは事実なのだろう。

変化することはときに大きな苦しみをもたらす。それが自分が予期しない、そのとき望んでもいないような類のものであればなおさらだ。しかし私たちは、存在している限り否応なく変化している。そして、その変化は(場合によっては過去生や来世も含めて)長い目で見れば見るほど、やはり面白いと思えるものなのである。だから、今現在あなたの人生が楽しいと思えないとしても、どうか楽しいと思えるときまで生きてみてほしい。あらゆる意味で、あなたはひとりではない。なんのことはない、私も日々グダグダと悩みながら生きている。けれど、まずは今日、まずは今日を生きてみようと思っている。そうやって生きてみた先に、きっとまた面白いものが見えてくるのだろう。それが事実か確かめるために、あなたは私の書いたものをただ見ていてもいいのだが、それではつまらないと思わないだろうか? どのみち変わらなければいけないのなら、自分の人生を少しでも楽しくするように動いてみてほしい。10年後に振り返ったときには、きっと笑って言えるだろう。

あのときがあったから、今があるんだ

と。