「できないからやらない」のではなく、「できるけれどやらない」のが良心だ

なぜひとを殺してはいけないのですか?

かつてこの素朴な問いがテレビの討論会で聴衆のこどもの口から発せられ、その場の誰もが明快な答えを提示できなかったことから、道徳を巡る大議論が喚起された。

普段は、「ひとを殺してはいけない」というのは「当たり前」だと思われている。しかし、世界では日々暴力事件や殺人事件が起きていて、「戦争」という名の「大義の下での大虐殺」が行われてもいる。討論会でこの問いを口にしたのは高校生らしいのだが、その高校生は当然こういったことも念頭にあったはずである。さらにこの問いには、次の前提が暗示されていると考えられる。

私もその気になればひとを殺せる。大切なものを護るためにはひとも殺すかもしれない。戦争に駆り出されれば、時代が時代なら私もひとを殺すかもしれない

だからこの問いを「被害者感情の軽視」だと捉える見かたに私は必ずしも賛同できない。ここには自分も

加害者になるかもしれない

という意識、すなわち「被害者/加害者の関係」を意識した視点が存在すると思えるからである。

私は決して屈強ではないし、むしろ弱いほうだが、それでもその気になればひとを殺せる。台所には包丁もあるし、遣いようによってはあらゆるものが凶器になり得る。もちろん私はひとを殺さない。殺したいとも思わない。しかし、

「その気になれば殺せる」

というのは事実なのだ。その事実と向き合ったうえで、私たちは「道徳」や「良心」を、どう考えたらいいのだろうか?

現代日本は法治国家である。だから、「犯罪」も「刑罰」も「法律」で規定する。そしてその「法律」は、基本的に「国民の良心の集合体」だと言える。現在の「裁判員制度」にも見られるように、私たちは自らの「良心」と、それを形にした「法律」で他人を見つめ、護っている。そしてときとして、自身の行動の指針にもしている。このようなことを念頭に、最も素朴に冒頭の問いに答えるなら、

ひとは殺してはいけないんだよ。法律でもそうなっているじゃないか。だからもしひとを殺したら罰せられるよ

このような考えかたに基づけば、「犯罪」を防止するのは「刑罰」であり、もし特定の犯罪が頻発するようなら、その犯罪に対する刑罰を重くすることが検討される。だから実際に、

ひとを殺した奴はみんな死刑にしてしまえばいいんだ

というような意見も出てくるし、世論に合わせて法律は改正され、重罰化が行われることも珍しくない。

しかし、このような考えかたにはある種の「落とし穴」が存在する。

「刑罰があるから犯罪を犯さない」と言うのなら、

刑罰がないのならしてもいいということか

という考えに至るひとも出てくる。そしてそれが進むと、

「法の抜け穴を探す」

「法の網をかいくぐる」

というような行動にでるひとさえ出てきてしまうのである。そうなると「いたちごっこ」が始まる。「脱法ハーブ」などはまさにそれである。そして逆説的に

「規制を厳しくすればするほど犯罪が増える」

という事態にすら発展するのである。

いくら法律を整備しても、私たちの心は整わない。私たちは法律に従って生きているが、法律に強制されて生きているわけではない。私たちの心を、日々揺れ動く感情を、無味乾燥な「用語」で縛ることなどできないし、「良心」を「法律」にすべて反映させることもできるはずがない。法律の力には限界があるのである。

ここで試みに、極端な事態を考えてみよう。私たちのからだ(脳)にICチップが埋め込まれたとする。そのチップは、最新の法律に従って私たちの行動を「制御」する。たとえばひとを殺そうとすると、チップはその「犯罪者」のからだに電流を流して気絶させる。ものを盗もうとすればからだが痺れ、少年が飲酒しようとすれば喉が詰まる。このように、犯罪を「強制的に」取り締まったとしたらどうなるだろうか? 表向きの「犯罪」はなくなり、世界は「平和」になるかもしれない。しかし、間違いなく私たちの精神はより腐敗し、屈折することになるだろう。盗人の腕を切り落とせば、盗人は二度と盗みをしなくなるのだろうか? 性犯罪者を去勢してしまえば、性衝動は根絶されるのか? とはそれほど単純ではないだろう。すべての根源は他でもなく、私たちの心にあるのだから。

このことを踏まえて、理屈も直接的な罰則も超越したのが、

ならぬものはならぬのだ

という戒めである。そこに理屈はない。強いて言えば、この言葉は、それをしたらいかに自分の心が痛むかを理解しているからこそ言えるものだと言ってもいい。しかし、ひとを殺したら自分の心がどんなに傷つくかなど、殺したひとにしかわからない。さらに言えば、殺した本人ですらすぐにはわからないだろう。ある意味殺人者は、その瞬間には

こんなヤツは殺したほうがいい

という<良心>に従ったのかもしれないのだ。そんなことを、理屈では説明できない。誰にもわからない。だから、理屈を放棄したのである。

「良心」とは「できないからやらない」というものではない。

「できるけれどやらない」

というものなのだ。誰も見ていなければものを盗んでもいいのか?そうではない。声を上げられない、抵抗できない相手なら、自分のこどもなら傷つけてもいいのか?そうではない。この

そうではない

という声を挙げるもの、それが「良心」だ。さらに言えば、ある種の局面では良心に反する行為が「賞賛」され、「正当化」されることすらある。戦争ではひとを殺めることが正当化され、場合によっては賞賛される。同級生をいじめるこどもは、

こんなヤツはいじめてもいいんだ

と言う。「いじめてもいいヤツ」を探すのである。その姿は、大人の鏡写しである。そんな状況で、自身の良心に耳を傾け、それに従って行動するのは容易ではない。しかしそれができるひとを「心あるひと」と呼ぶのである。

「世論」はときに大きな間違いを犯す。「政府」が常に正しいわけではない。「法律」に従うと「正義」が実現できるわけではない。私たちは、自身の「良心」に従うしかないのだ。それに、私とあなたの「良心」がまったく同じでもない。「良心」は「与えられる」ものではなく、「作るもの」だからである。法律とはある意味、

「外にある、誰かの良心」

である。しかし私たちはもういちど、自分の良心を自分のなかに引き戻し、見つめなおし、育てる時期に来ているのではないだろうか。私もまだまだ未熟だが、もっと自分の心にきちんと耳を傾けられるようになりたいと、そう思っている。