科学者と私の立場に、実はそれほどの違いはないのではないかと思うようになった

現代社会において、「科学」の持つ権威は圧倒的だ。そして、現代における「高名な」科学者の方々の基本的な見解は、霊的世界の存在を肯定するものではない。だから、多くのひとびとも霊や死後の世界の実在を信じることができない。その意味において、私の言っているようなことは科学的な見かたとは相反するものであり、これが広く認められる可能性があるとすれば、まず科学者の考えかたが変わらなければならないと思っていた。しかし、私は最近になって、少し視点を変えてみると、科学者と私の立場に、実はそれほどの違いはないのではないかと思うようになったのである。

科学者は「法則」を探求している。その法則とは、複雑な世界の有り様を説明するものだ。たとえば「万有引力の法則」というようなものもそのひとつと言える。

「仮説を検証し、証明し、法則化し、体系化する」

この過程の積み重ねで、いずれあらゆる現象を説明し、予測することができるようになること、言い換えると、この世の謎をすべて解き明かすこと。これを科学の究極の目的だと言ってもいいだろう。

一方で、私(のような信仰者)もまた、ある種の「法則」を探しているのである。ただ、その表現方法が異なる。たとえば「水」を見たとき、科学的な立場でそのはたらきを観察し、(主に数学的に)表現し、体系化するのが科学者であるならば、その「水」のはたらきが自分の理解を超えていて、それが自分のいのちを支え、育んでいることに気付き、それに「水の神」と名付けるのが信仰者である。だから、「神」を「はたらき」と言うのである。

つまり、科学者も信仰者も、世界の背後にある「神秘の力」(未知のはたらき)を理解しようと思っている点においては、共通しているのである。たとえば、

聖典を信じて豚肉を食べない

というひとをある科学者は一笑に付すかもしれないが、そのひとは「豚肉を食べない」ということと「自身のしあわせ」(魂の成長、死後の安楽……)を結び付けて考えている。つまりそこにある種の「法則性」があることを信じているのである。科学だけでなく、信仰も程度の差こそあれ「体系化」される。科学者が「科学誌」を読むように、信仰者は「聖典」を読む。「(唯一)絶対神」を求める信仰者を横目に、科学者は「絶対法則」を求めている。

こう考えてみると、この両者は実のところそれほど違わないのではないだろうか?ただ、このとき課題になるのは、科学者というよりも、むしろ「唯物論者」のほうである。この場合の「唯物論者」というのは

目に見えるものしか信じない

という立場のひとである。このひとたちにいくら「霊存在」の話をしても聴き入れてはもらえないだろう。しかし、本当に

目に見えるものしか信じない

と言うのなら、そのひとは「重力」も「空気」も「紫外線」の存在も信じられないということになる。だが、それは確かに存在しているのである。私たちの肉眼で捉えられるものは、この世界の一部分にすぎない。このことを真摯に受け止めれば、唯物主義はある種の傲慢であると認めざるを得ないのである。

また、そういった意味において、ある「宗教」や「聖典」を過度に絶対視するのも問題を生み出す元になり得る。どの「宗教」も不完全である。そしてもし、その「教義」を改められるのは開祖だけで、後の世代のひとはそこに修正を加えられず、未来永劫それが変わらぬ真理だと考えるのだとしたら、それは地動説を認めた科学界よりも硬直した態度である。そして、硬直した態度は争いにつながる。それは現代の状況を見ても明らかなのだ。

あなたが「科学者」であろうが「信仰者」であろうが、世界に「未知の謎」があることを受け入れ、自分の「世界観」を拡げようという柔軟な姿勢を持っているのなら、そこに私との違いはない。きっと、私に関心を持ち、これを読んでくださっているあなたはそういうひとなのだろう。だとしたら、私はあなたと出会えたことを本当に嬉しく思う。あなたがどこでなにをしているひとであれ、私たちは「仲間」なのだから。