なぜひとは不安になり、そして祈るのか?

どんなときにしあわせを感じるかはひとそれぞれだが、ひとつ言えることは「安心」できているときはしあわせだということだ。安心しているということは逆に言えば

不安がない

ということだ。そう考えると、不安がなくなれば私たちはしあわせを感じられるはずなのだが、実際にはその「不安の種」はあらゆるところにあって、次々に現れては私たちを惑わし続ける。だからこそ、「現代人」の多くは常に不安を抱え、しあわせの実感から離されている。ではそもそも、なぜ私たちは不安になるのだろうか?不安を感じてしまう様々な理由を総合して説明できる観点はないかとずっと考えていたのだが、先日ひとつの考えにたどり着いた。それは、

経験がないからだ

というものだ。経験がないから、私たちは不安を感じるのではないだろうか?

たとえば、毎日同じようなことの繰り返しを行えばいいのであれば、私たちの不安はかなり軽減される。それに、繰り返しのなかで私たちは「コツ」を掴み、作業に熟練し、いろいろな事態に対応する経験を積んでいくこともできる。だから、一流の職人の腕には誰もが目を見張るし、その「対応力」は最先端科学でも真似できない。

逆に、毎日まったく知らない道を通り、知らないひとたちに会い、昨日とはまったく違うことをやらなければいけないとしたら、それはかなりのストレスを感じるものになるだろう。異国の地で私たちが「ホームシック」に陥るのは、周囲の環境と馴染めず、相手の行動が理解できず、まして言葉も通じないような状況のなかで、知らず知らずのうちにストレスを溜め込んでしまうからである。

「水を得た魚」というのは、自身の適性を活かし、喜びを感じられる場所にいられている状態のことだ。私たちは自分が慣れ親しんで要領を掴んだ場所では、それなりにうまくやっていける。しかし、魚が陸に引き揚げられると死んでしまうように、私たちもまた、自分がまったく知らない環境に放り出されると、とたんに元気を失ってしまう。

だから、私たちのある部分は「現状維持」を望むようになっている。しかし一方で、完全な現状維持などあり得ないということも、私たちは気付いている。世界は刻一刻と変化しているのである。毎日同じことの繰り返しだと思いながらも、いつかはなにかが変化することを知っている。だから、私たちは不安を感じてしまうのである。「知っていること」には限りがあるが、「知らないこと」は無限にあるのだから。

ところで、そんなとき私たちは<神>に祈る。このとき私たちが想像する<全知全能の神>とはなにか。単純に言えば「経験者」である。私たちにとっては「未知」であるものを既に知っていて、それに対する対応策を知っている存在、それに頼りたくなる。「親に頼る」というのも根底にあるのは同じことで、「自分より経験のある存在」に助けを求めたくなるのである。

先日、2歳にも満たないだろうこどもが、壁に頭をぶつけたのを遠くで見た。そのこどもは全身で泣いていた。しばらく泣き止まなかった。その子を泣かせたのは「痛み」そのものではない。「未知に対する驚きと恐怖」が、そこにあるのである。同じことが私の身に起きたとしても、私は泣かない。それは、壁に頭をぶつけたくらいではからだに深刻な影響が出ることはほとんどないし、この痛みはそれほど遠くないうちに薄れ、消えていくことを「知っている」からである。「経験」が私に「対処法」を示しているのである。

そう考えると、ひとびとがずっと「死」を恐れているのも理解できる。「死」は人生の最期まで経験することがなく、それも1度きりだ。本当は、私たちは何度も生まれ変わる過程で「死」を経験しているのだが、それは厳密には「魂の死」ではない。魂(精神)そのものは死なないので、死を知らない。また、「肉体」そのものはその生ごとに違っているので、その意味でからだも死を知らない。それに、私たちは「他者の死」と「自分の死」が同じではないことも知っている。いつどうやって死ぬのかは千差万別であり、無数の「他者の事例」を集めても、「私自身の死」については誰も語ることはできないのである。

ましてや、現代人は「死後の世界」そのものの存在すら疑っていて、

死んだら無になる

と考えているひともいる。「無」というものは経験するどころか想像するのも難しい。そうして、ひとは死を恐れるのである。それに、そんな「無神論者」を公言していたひとでさえ、死を意識するようになってから「宗教」に関心を持ち始めたり、<神>に祈り始めたりする場合も多い。答えのない未知に独力で立ち向かうのは、やはりとても難しいものである。

だが逆に、自分の人生のすべてが見通せてしまったら、それはそれでつまらない。新しい経験ができない。本当は、年長者のほうが人生の「酸いも甘いも」経験してきたからこそ、過去の自分の過ちを笑って振り返り、未来を担う若者たちを導くこともできるはずなのだが、ずっと同じような環境、いわゆる「恵まれた環境」にしかいなかったとしたら、それはいずれ大きな空虚感となるのである。なぜなら、どんなひとも最期には「死」というかたちで「経験」以外のすべてを手放さなければいけないのだが、それまで「未知」を経験したことが少ないぶん、その恐怖も大きくなるからである。

私たちは、未知に立ち向かうことを恐れてしまう一方で、現状維持に徹してばかりでも力を失ってしまう。そして未来が見通せないから不安になり、ときによくわからないままになにかに祈りを捧げることもある。

では私自身はどうかといえば、迷ったときに私はよく「前世の自分」を考えるようにしている。「前世の自分」はなにかやりたいことや学びたいことがあって生まれ変わり、その結果今の「私」がある。生まれた後の人生のすべてを見通して生まれるわけではないが、人生には愉しいことだけではなく、苦しいと感じられるようないろいろなこともあるだろうことはわかっていたはずだ。それでも、生まれたいと思って生まれたということは、生き抜いたとき、少なくとも

悪くない人生だった

と思えるくらいのものが得られると思ったはずなのだ。

だとしたら、せめて私自身もそのことを確かめたい。それに私は守護霊のことも信頼している。私たちは誰もひとりで生きているわけではない。それに私たちの人生には、生きるに値する「なにか」があるはずなのだ。不安になるのはそれがなんなのかがわからないからでもあるが、同時に日々自分が変化している証でもある。

新しいことを経験すれば、新しい自分になる。そして、過去の自分を笑って振り返られるようになる。そのとき、私たちの過去の不安は消えている。前に進めばまた新しい不安が生まれるかもしれないが、あなたはもうそれを「成長の糧」にできる。そして、あなたが誰か「経験者」を求めたきたように、今度はあなた自身の「体験」が、周りの他者をも活かすことになるのである。それこそが、なによりのしあわせなのだろうし、私もあなたとともに、そんな存在になりたいと願っている。