ビリー・ミリガン。彼と私はなにが違い、どこまでが同じなのか?

以前

「統合失調症」という言葉を聞く機会は、以前よりずっと多くなったように思える。一説によると少なくとも100人にひとりくらいの割合で統合失調症患...

と書いた。結局、その区別はとても微妙であり、私も精神病院に行けば、かなりの確率でなんらかの「精神疾患」に罹っているという診断が下されると思われる。しかし、そもそもそのような「精神疾患」というものの存在自体に疑惑の眼を向けるひとも少なからずいて、それは単なる「演技」や「思い込み」ではないのかという意見は常にある。ただ、そのような「精神」の謎に対する理解は、疑惑や驚きなど様々な想いを巻き込みながらも、全体としては進んでいるようにも見受けられる。そしてその歴史を考えるうえで外すことができない人物のひとりが、アメリカの「ビリー・ミリガン」であることは、間違いないだろう。

1977年、アメリカで連続婦女暴行事件が起きた。警察は数々の物的証拠と証言から、前科もあるひとりの男を逮捕する。その男が「ビリー・ミリガン」である。彼は事情聴取を受けるうち、抱えていた「秘密」を話しはじめる。それが、自身が「多重人格者」であるという事実だった。正確に言えば、その秘密を伝えたのは「ビリー」ではなく、彼のなかの「別人格」のひとりであり、「ビリー自身」は長い間眠っていると言うのである。その「主張」は当初弁護士にも否定的に見られていたが、その後複数の人間との接見のなかで、彼の「身体機能」や「知能」の変化、そして明らかな「言葉遣い」(訛り)の変化などから、「ビリー」のなかに複数(最終的には計24人とされた)の「人格」が存在することが認められ、それによって歴史的な「無罪判決」を受けたのが彼である。

事件の詳細な顛末は書物にもまとめられたし、近年でも様々なメディアに取り上げられているので、少し調べればいろいろな情報を得ることができる。私も彼の存在は以前から知ってはいたのだが、先日図書館で『24人のビリー・ミリガン』(ダニエル・キイス著 堀内静子訳 早川書房)を見つけて読んだことで、改めて関心を持った。そして、やはりこのような問いを持たざるを得なかったのである。彼と私はなにが違い、どこまでが同じなのか?

一言で言えば、それは「主体の強さ」だということはできるだろう。彼は幼年期に父親から受けた(とされる)性的虐待などにより、自身の存在意義に疑問を持ち、人生を悲観していた。その結果「主体」が弱まり、自分の意図しないときに意図しない「人格」にからだを明け渡すことになった。そのときの「主体の弱さ」が、「言葉遣い」や「身体能力」、「知能」に至るまで大きな影響を受ける結果となったのではないかとは考えられる。

私の場合と比較すれば、私は誰にからだを貸したとしても自分の「意識」は完全には失われないので、たとえば外国人が入ったからといって外国語を話しだすこともないし、私の知らない知識を語りだすということもまずない。そのときの<私>は純粋な「私」ではないのだが、あくまでも「私」の基盤のうえに相手の意識が乗っているというような感覚である。ビリーの場合を

「完全に乗っ取られる」

と言うとしたら、私の場合は

「自分は助手席に座り、運転席だけを譲る。ブレーキは私が管理する」

といったところだろうか。

ところで、ビリーの記録を読んでいくと、彼のなかにいる24の人格はすべて、<教師>と呼ばれる元々の人格が「分裂した」ものであり、その素養や特徴はすべて<教師>のなかに内在していたもので、新しくどこかから「入ってきた」ようなものではないという見解で関係者(多重人格そのものを否定する方々は除く)が一致することになる。そもそも、それは精神医学のなかでは一般的な見かたであり、だからこそ彼の人格は、いずれは「統合」されるべき存在と見なされる。

しかし一方で、ある程度「統合」が進んだ<教師>には、確かに他の人格が備えていた特徴が折り重なっているものの、
「各人格の能力の総合には及ばない」

というのである。これは一見すると奇妙である。

「統合の過程で、各人格に散らばっていた潜在能力の発露を抑制した」

というように捉えれば説明できないこともないだろうが、やはりなにか腑に落ちないものが残る。また、24人のうちの誰かが意識を持っている(彼らは「スポットに出る」と表現する)とき、他の人格はそれぞれ違う行動を取っているという。とするとたとえば、ある人格が医学を学んでいる傍らで、別の人格は機械の扱いを学んでいるが、意識を持っている人格は料理をしているということになる。では、このとき彼らは「どこから」医学を学んだり、機械の扱いを学んだりしているのだろう?

「すべての素養は元々の人格に備わっていた」

という観点からすると、各人格は新たな知識を「どこか違う世界から仕入れた」わけではないのだから、たとえば医学の知識は、「医学書を読んだときの記憶を掘り起こして復習している」ということにでもなるのだろうが、これは直感的にはなかなか納得しにくい。それならば24人の人格はもともとは「1人」であったのが、今や「24倍の時間」を過ごしているということになる。「分裂した」のだからそれでもいいのかもしれないが、どうも単純な「分裂論」にはどこかで無理が生じるような気がする。

また、ビリーや他の人格は最初「人格」という言いかたを好まず、たとえば「他のひとびと」というように呼ぶべきだと言っていた。しかしそのうちに、「人格」という呼ばれかたを受け入れるようになっていった。そもそも、最初からあった人格を<教師>というのは、他の人格の知識や能力は<教師>から「教わった」ものだという意識に基づいている。このようなことも、とても興味深く感じられる。

もちろん、もともとこのような多重人格に関わることは「謎」だらけなのだから、すんなり納得できる説明ができるひとなどまずいない。ただ、私は「霊媒師」という少し特殊な見地から、私なりの関心を寄せているのである。彼と対比することで、自分のことを振り返るいい機会にもなった。私に関わってくる霊存在は、自分となんらかの「結び付き」があるとも言える。ということは、彼らも私の一部だと言えないこともないし、逆に私が彼らの一部だと言えないこともない。では、「自己」とはなんなのか? 「他者」とはなんなのか? ビリーのような存在は誰にとっても根源的な問いを投げかけている。私自身もやはり、この問いからはまだまだ、逃れられそうもない。