カネがあればモノは買えるが、なぜ心は休まらないのか?

現代では資本主義が世界を覆い尽くしている。だから、私たちはカネのことを考えずには生きていられないとさえ言える。基本的な衣食住から様々な「サービス」に至るまで、あらゆるものがカネを介して動き、取引されているので、カネがあればほとんどのモノを得ることができる。一方で、カネがないと生活が困窮し、将来の希望を持ちにくくなり、心は荒み、余裕を失っていく。だから、私たちの多くはカネによって追い詰められ、カネを求めて生きることになるのである。

だが、話はそう一筋縄ではいかない。そうやって晴れて念願の「カネ持ち」になることができたとしても、それでしあわせになれるとは限らないからである。これは、一見すると非常に奇妙な事態だ。しかし、多くの「成功者」と呼ばれる方々の人生を冷静に見てみると、これはかなり確かな事実なのである。だとすると、私たちは間違った「目標」に向かって歩んでいる可能性すらある。このことは、いちどきちんと考えてみたほうがいい。果たして、カネと私たちのしあわせは、どのように関わっているのだろうか?

カネが私たちの生活に与える影響を極端なかたちで示してくれるのが、宝くじに当たったひとびとであるとも言えるだろう。日本で宝くじに高額当選すると、『その日から読む本』というガイドブックが渡されることを知っているだろうか?詳しくは

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も参照してほしいのだが、ここには高額当選者に望まれる様々な「心構え」が説かれているという。にもかかわらず、多額のカネが原因で身を滅ぼしたひとは数知れない。もちろん、そのカネを本当に有意義なかたちで活かすことができればいいのだが、それができないことも多いのである。過ぎたカネは、自身だけでなく周りの欲望までも過度に喚起してしまう。その結果、すぐにカネを散財してしまったり、人間関係が壊れたり、精神を病んでしまったりすることもある。100万ドル当選のわずか1か月後に、毒殺されてしまったひともいる。これは、哀しい事実である。

それに、世界的な「大富豪」と呼ばれる方々の顔を見ているだけでも、そこに明らかな苦悩がにじみ出ていることが見て取れることも多い。それは、

「どんなに多くを持っていても、それはいずれ必ず失われる」

ということを、私たちが直感的に知っているからではないだろうか。カネがあれば多くのモノを手に入れられる。だがそのような「モノ」や「カネ」、それに「地位」も、私たちが死ぬときにはすべてを手放さなければならない。これは誰もが知っていることなのだが、持ちものが多ければ多いほど、それを手放すのは難しくなるのである。

「持っているものを失う」ということは、「もともと持っていない」ことよりも心理的に大きな重圧を与える。そして、資本主義の特徴である「競争」を究めるほど、「より持つ者」に自身の劣等感を刺激されると同時に、

いつか奪われる

という強迫観念に襲われる。それに、それはいつか「死」というかたちで必ず訪れることを知ってしまっている。この事実は、見かたによってはとても残酷に思える。だから、「苦悩」が生まれるのである。

だがそれを解消するひとつの方法がある。自身(または親しいひとびと)のためだけにカネを遣うことをやめ、「進んで寄付する」ということである。実際には富豪がカネを動かすと様々な思惑が絡むので、賛否両論もあるのだが、それでも富豪になって「社会貢献」を意識して財団や企業を立ち上げたり、多額の寄付をしたりするようになるひとがいるのは、それが他者のためになるだけでなく、自分自身のためになることを知っているからだと思う。そしてこれは、確かに効果がある。あなたも無理なくできる範囲でやってみれば、きっとそれを実感できるだろう。

また、多くのカネを持ってしまうと、いわゆる「ちいさなしあわせ」に気付きにくくなってしまうのも確かである。私は今でもそれほどのカネを持ってはいないのだが、以前食べ物に困っていたとき、隣人が私にくれた塩おにぎりと野菜炒めの味は、今でも忘れられない。相手に感謝していることはもちろんだが、こんな経験ができてよかったと思う。このとき味わった気持ちはこれからも、ずっと持ち続けていたい。

現代の世のなかではカネは必要だし、大切なものでもある。しかし本当に重要なのは、「それをどう活かすか」なのである。私たちはまだ、その遣いかたをよくわかっていないのかもしれない。だからひたすらに「量」を求めてしまいがちになる。そしてうまく活かせず、むしろ不安と虚しさを抱えてしまう。だからここで、もういちどカネの「質」を考えてみればいい。実はカネほど、「使用者の心を試すもの」はないのかもしれない。だとすると、やはりそれは素晴らしいものでもある。「金」と書くのも頷ける。そして死んだときも、それが与えてくれた「経験」だけは、かけがえのないものとして向こうの世界に持って行くことができる。だからやはり、それをしあわせの金にするか、虚しいカネにするかは、私たち自身の手に、かかっているのである。