ときを区切ることの意味と、時間を忘れているときのしあわせ

「人生3万日」

と言われることがある。これは人生をおよそ80年と考えて言われるものなのだが、実際には物心がつき、自分の人生を意識的に過ごせるようになるまでにも時間がかかるので、もっと短いと言うひともいる。あるいは、1日の3分の1くらいは眠っているのだから、実質的には2万日もないと捉えるひともいる。

また、これを1日単位に落とし込み、24時間のうち8時間は眠っていて、食事に1時間半(30分×3回)、風呂に1時間、歯磨きやトイレなどに1時間、そしてなにより仕事に10時間(出退勤、残業なども含む)と考えてみると、自分の自由に遣える時間は実質3時間もないことになる、というように嘆くひともいる。

このような捉えかたは一見筋が通っているので、言われてみればそれなりに納得してしまう。しかし、それを受け入れるととても陰鬱な気分になるからと、目を背けるひとも多い。特に、人生で大きな意味を持つ「仕事」が自分にとって苦痛であるようなものであれば、なおさら哀しくなってしまうだろう。ただ、現代の日本人の多くは、そのような生きかたをしてしまっているのかもしれない。そして、いつも「効率」を要求され、時間に追われ、心に余裕を持てないまま日々を過ごしてしまうのである。

だが、本当にそれでいいのだろうか?私たちはどうすれば、自分に与えられた時間を活かし、喜びのなかで生きることができるようになるのだろうか?

「時間」というものはそれ自体がとても謎めいたものなのだが、実はその「長さ」は一定ではなく、状況に応じて変化しうることが知られている。それで、最近思うようになったのだが、時間というのはもしかしたら、「区切ると短くなるもの」なのではないだろうか?

極端に言えば、日々を「秒単位」で区切って生きたとしたらどうなるだろう? 常に「カチカチカチカチ」と秒に追われて生きたとしたら、私ならおかしくなってしまう。逆に、私たちが自然のなかに入って落ち着くのは、本来の「悠久の時間」のなかにいることで日々の「細切れの時間」の意識から離れることができるという面も大きいと思う。

現代社会で要求される「効率」を高めるために、

今から◯時まで集中して勉強する

◯時までにこの仕事を終わらせる

というように「時間を管理する」手法もあり、それはそれで有効な場合もあるだろう。しかし、そうやって時間を意識すればするほど、むしろ時間に追われてしまうという面もあるのではないか。逆に、

気付いたら時間が経っていた

というときに、私たちは本当に集中しているのである。なにかに没頭して時間を忘れられていられるのは、ひとつのしあわせだといえる。こどもたちはそのような時間の遣いかたが得意なはずなのだが、現代では「受験勉強」などがますます低年齢化しているのを見てもわかるように、小さいうちから時間に追われているのかもしれない。だとしたら、それはあまりにも大きなものを失っている。

そもそも、「人生80年」などと区切ってしまうと、人生の「残り時間」から逆算して考えてしまいやすくなり、「高齢」になってからの可能性を狭めてしまうことにもつながりかねない。しかし実際には、いくつになってからでも多くのことを成し遂げたひとは大勢いる。「還暦」を過ぎたら第一線からは退くものだと考えるひともいるようだが、本来還暦は「大還暦」、つまり120歳から見たときのちょうど折り返し地点なのだ。60年の経験を活かして、いよいよ本領発揮する時期と見ることもできるのである。それに、区切られた時間感覚のなかでは、

「一瞬に永遠が宿る」

というのは理解し難いかもしれないが、それが実感できる瞬間が、確かにあるのだ。

明日、地球が滅びようとも 今日、私はリンゴの木を植える。

と言ったのはルターだが、このとき意識はこの世界を超越している。そのとき、あなたの世界は根底から変化するのである。さらには、

今日、世界が滅びようとも、明日、君は林檎の木を植える。

という言葉すらある(開高健がアレンジしたものだともされている)。

もしこう言えるようになったとしたら、あなたにはもう、不可能などないのである。