究極の自由があるはずの霊が、なぜ自ら不自由な世界に生まれ変わるのか?

私たちは誰かに押しつけられた人生を生きたいとは思っていない。それぞれ違った価値観のなかで生きていて、なにを喜びと感じるのかも違うのだから、自分の人生は自分の意志で切り拓いていきたいと思う。だから、私たちは自由を求めるのだが、自由が大きくなればなるほど、今度はその多くの「選択肢」(可能性)のなかから、「たったひとつ」を選び取ることができず、迷いに入ってしまうことがある。これについては以前にも

私たちは、自由になりたいと願う。様々な事情により、望まない環境のなかで生活しているひとにとって、なによりも欲しいのが自由だ。しかし私たちは、...

と書いたのだが、このような「自由」の

「少なすぎると窮屈だが、多すぎても迷いのもとになる」

という二面性は、とても興味深いものである。

ここで少し視点を変えてみると、霊存在はとても自由である。まさに自分の「想いのまま」に、行きたい場所があるなら行けるし、食べたいものがあるなら食べられるし、会いたいひとがいるなら会える。基本的に、

「今すぐなんでもできる」

と言っていい。他でもなく、私たち自身もこの世界に生まれ変わる前はそのような存在だった。しかし、私たちはそのような「自由」を自ら手放して、この世界に生まれてきた。そして、この世界でまた「自由」を追い求めて生きている。これは、いったいどういう意味を持つのだろうか?

亡くなってからそう時間が経っていない霊で、特に病気などで苦しんでいたひとと話すと、

ラクになった

と言われることも多い。逆に死んでからも病気の苦しみを引きずっているのなら、それは心で「思い込んでいる」だけなので、それに気付けばすぐに解放される。

私たちはいずれ必ず死ぬ。それ自体は避けられないことなのだが、多くのひとはできれば死の直前まで健康でいて、「ぴんぴんころり」と老衰で死にたいと...

そのうえ自分が想いの世界に生きていて、望むならなんでもできることを理解すると、たいてい相手はとても喜ぶ。それで話が終わるのなら、みな「自由な」霊存在であり続けるので、この世に生まれるひとがいなくなるはずだ。ところが、現実はそうなっていない。なぜなのだろう?

それは、端的に言えば「飽きてしまうから」だ。文字通り「すべてが手に入る」状態がずっと続くと、私たちは「未知の刺激」を受けられず、「新しい経験」を得る機会が少なくなり、結果としてエネルギーが小さくなってしまう。望みがすべて叶えられると、だんだん新しい望みもなくなり、つまらなさと虚しさが募ってくるのである。もちろん、同じことの繰り返しのなかにも多少の変化があるし、好きなことであれば喜びが大きいので、霊存在でいる期間にも愉しみはあるし、意義もある。ひとつの人生を「生き抜いた」のであれば、まずいったんは霊存在としてゆっくり過ごしながら、人生を振り返るのも必要な時間だろう。だが、それがずっと続くと飽きるのだ。霊界は「想念界」なので、自分の「思いもよらないこと」というのは基本的に起きない。まったく趣味の違うひとと出会う機会も極端に少ない。善くも悪くも、ある種の「住み分け」が為されているのである。だからやはり、得られる「経験」の幅は限られてくる。

それに比べて、この世界は「混沌」として、「猥雑さ」に満ちている。「予想外」のことが多々起きるし、ときには「理不尽」だと思えるような目にも遭うし、なかなか「思い通り」にはならない。だが、それが「飽き飽きとした霊」から見ると「面白い」と映るのだ。今まさにその渦中にいる私たちにはなかなか理解し難いものでもあるが、霊の立場からするとそれも事実なのである。言いかたを変えると、私たちは

「霊界の生活(自由)に飽きたので、肉体界の生活(不自由)を体験しに来た」

ということなのだ。

霊存在と肉体人は、ある意味互いを羨んでいる。だからこそ、私たちは霊人としての生と肉体人としての生を繰り返しながら生きているのである。そして肉体界では、なんでも思い通りにいかないからこそ「工夫」の余地も大きくなる。ひとりで生きていくことができず、ときに自分の理解を超えた、まったく異質な存在との関わりがあるからこそ、「個性」が生まれ、「他者」を通じて「自己」を知り、それぞれの相互関係のなかで「お互いを活かし合う」ことができる。これは、この世界の醍醐味のひとつである。私たちひとりひとりには「有限の可能性」しかないのだが、それが組み合わせられることによって「無限の可能性」が生まれる。これは、考えてみればみるほど奇跡的なことだ。この事実を噛み締めたとき、きっとあなたも生きるのが楽しくなり、不自由な世界に生まれてきた自分の決断を、悪くないと思えるようになるだろう。