「委ねる」という生きかたをするときには、必要なひとつの心構えがある

南無阿弥陀仏

という祈りは日本人には馴染み深いものである。この「南無」というのはわかりやすく言えば

委ねます(深く信じます)

という意味だ。だから、「南無」の後を変えて、

南無観世音菩薩

南無釈迦牟尼

というように、自分が敬愛し、委ねてもいいと思える相手の名前を入れてもいい。このように、「祈る」という行為には「相手に委ねる」という面がある。自分の力ではどうにもならない事態になったとき、私たちは祈る。あるいは、その考えかたを突き詰めて、

最初からすべて天にお任せする

という考えに至るひともいる。

このように、程度の差こそあれ私たちはなにかに祈る。それが<神>であるか、「仏」であるか、「自然」であるか、「守護霊」であるか、その対象はそれぞれだが、人生のなかでまったくなににも祈らずに生きることは困難だし、祈ることによって気がラクになるならそれは大きな意義もある。ただ、たとえば、「信心」が間違った方向に暴走して「洗脳」になってしまうように、「祈る」(委ねる)ということがどういうことか、それをいちど考えてみなければ落とし穴に陥る危険もある。だから、その相手がなんであれ、「委ねる」という生きかたをするときには、必要なひとつの心構えがあるということを、あなたにも知っておいてもらいたいのである。

その「落とし穴」を端的に示しているのが、

なんだ、この神様は御利益ないな

というような言葉である。私も多く見てきたが、世のなかには数々の宗教団体を渡り歩きながら、より「力」のある<神>を求め、自分にとって満足のいく「結果」が表れない場合、

祈ったのに御利益がない

などと言って去っていくようなひとがいる。だが、これが大きな誤りなのだ。それは「祈り」ではない。「祈り」とは、「委ねる」ことであり、「委ねる」ということは、

自分が望む結果にならなくても、不満を言わずそれを受け入れます

という心構えがなければできない、というよりしてはいけないことなのである。

これがわからなければ、ひとびとの悩みはより深くなるばかりなのだ。そもそも、自分の力ではどうにもならない局面になったとき、自分が信頼できる存在に助けを求め、委ねることが「祈り」のひとつの原点である。それならば、委ねた相手が出した結果は、少なくとも自分ひとりでやった結果よりはよかったのだと「信じ」、受け止めることこそが、祈った者に求められる態度なのである。

祈りとは「相互行為」である。それなのに、祈るほうは次々と相手を変えるような気持ちでいて、結果については祈られたほうだけに責任を負わせるのは不当というものだ。だから、その意味では

このひとがやってもこうならしかたがない

と思えるような相手でないなら祈らないほうがいい。逆に言えば信じた相手が出した結果はともに引き受ける。この覚悟があって初めて「祈り」なのだと言っていい。少なくとも、

「祈る相手を選んだ」

のはあなたなのである。

また、目に見える「御利益」(現世利益)がないからといって、必ずしも相手に力がないとか、自分のことを見放していると考えるのも間違いである。もちろん霊存在にもいろいろなひとがいるので、こちらのことなど気にもせず威張っているだけだったり、自分の力を誇示してみせたいだけだったり、虚勢を張っているだけだったり、私たちを利用しようとしていたりする場合もある。だから誰彼かまわず祈るのはやめてもらいたいのだが、多くの「信仰」を集めているような存在は、その「信心」のエネルギーによって、実際に力を持っていることも多い。彼らは私たちの「祈り」にも、ちゃんと耳を傾けている。それに、少なくとも守護霊は誰にでもいて、私たちを常に見守り、励まし、愛してくれている。それなりの「知識」も「経験」も「力」も充分に持っている。

ただ、私たちとは「時間感覚」が大きく異なるのだ。だから、私たちには一見「悪いこと」に見えるものも、長期的に見れば私たちの「経験」や「成長」のために必要なら、ともに受け入れる。実際、そのように「後から見ればあれでよかった」と思えるようなことは、多々あるものなのだ。ただ、人生の荒波の渦中にいて、目先の苦しみに一喜一憂しがちな私たちには、その時点では見えていないというだけなのである。それに、守護霊にとっては「死」すら変化と成長の過程のひとつだと見えているので、死に怯えがちな現代の私たちとは、そもそも感覚が合わなくて当然なのだ。だが、幾世にもわたる長い観点で見れば、守護霊の見かたも確かに正しいのである。

よく

願ったことを忘れると叶う

という言いかたもあるが、これも一理ある。なぜなら

「願ったことを忘れた」

とき、そのひとの時間軸は目先の利益を超えて、守護霊の目線に近づいているからである。そしてそうなったひとにとって、当初の「願い」が叶うか叶わないかというのはあまり意味を成さなくなる。だから、どちらに転んだとしても、そのひとには「しあわせ」が待っているのである。

このようなことがわかると人生の不安が消える。これが真の「祈り」がもたらす効用なのである。それにこのことが理解できると、人生を本当の意味で自分の手に取り戻せる。祈った結果起きたことについても自分で受け入れるようになったなら、そのとき祈った相手と自分は一体となる。これを繰り返していけば、あなたは自他の区別を超えて、無限に融け合うのである。「宗教」という語の基になった”Religion”には「再び結び付く」という意味があることは前にも述べたが、すべてと和したとき、あなたの力は最大になる。

というより、それは「あなた」の力であると同時に「みんな」の力でもあるのである。そして、自他の区別を超えたとき、「敵」は消え、すべてが愛おしくなる。すべては自分の一部であり、自分はすべての一部なのだから。真の「祈り」とは、このような実感を与えてくれるものだ。これ以上の「奇跡」や「利益」が、どこにあるというのだろう?

とはいえ、かく言う私も落ち込むことも多く、油断するとすぐ不安に苛まれ、世界に悪態を吐きたくなってしまうようなこともままある。そんなとき、私は祈る。そして、自分なりにできることをする。神社仏閣に行って掌を合わせるよりも、アワアワと無我夢中であがくことが多い。その結果はときに予想外のものである。思いもよらなかったところでトラブルが起き、思いもよらないかたちで解決する。そんなことがたくさんあった。そして今も、10年前には思いもよらなかったことをしている。ただ、私はなんとか生きている。昔

この世界で生きる価値があるというなら、その証拠を見せてみろ!

と守護霊に祈った(恫喝した)結果が、今になって私にもやっと少しずつ見えてきた。だから、私はこれからも生きていこうと思う。あなたにも生きていてほしい。私に期待すべき力などほとんどないが、私はあなたのしあわせを、心から祈っている。