鳴かぬなら鳴かぬでよいぞホトトギス。他者は未知の存在だが、だからこそお互いを成長させる

「鳴かないホトトギス」を用いて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格を表現した句があるのはよく知られている。

たとえば

にも詳しくまとめられています。

ここからいろいろなことを考えることができるのだが、ひとつはこの句は

思いどおりにならない他者にどう対応するか?

という問題を示唆しているとも言える。これは誰にとっても悩ましいものである。それは現代社会がますます「効率」を求めるものとなっていて、他者をより「適切に」動かし、自分自身も周囲からの要求に「迅速に」応えることを要求されるようになっていることとも無縁ではない。そして、たとえ「業務」などというかたちで「共通の目的」に向かうような状況であったとしても、自分とは異なる存在である他者とうまくやっていくのはそう容易ではないものだ。そして、私たちは無意識に時間に追われるなかで、ますます心の余裕を失ってしまいがちである。だが、だからこそときには意識的に立ち止まって、他者の存在とその意味について考えてみることが、必要なのではないだろうか?

現代社会は、「工業化」が大きく進んだために、ひとも「均質で、従順な労働力」となることを求められるようになった。「ひと」は「人材」と言い換えられ、「材料のように交換可能」なものとなったのである。これはなにより「結果を安定させるため」でもある。このひととあのひとが作ったモノが違うと困るし、特殊な技術力が必要な製品は大量に生産できない。だから、「マニュアル」を作り、労働者を「均質化」することによって、大量生産の素地を整えようとしたのである。

これには「教育」の協力が欠かせないので、実際に教育現場もそのような動きが進んだ。

「得意なことを究める」

よりも

「苦手なことをなくす」

ことに重点が置かれるのは、ある程度の「均質さ」を確保するためである。これは言ってみれば、

鳴かずともなかして見せふ

方式である。ただし、その「鳴き声」はなんでもいいわけではない。だから、そこに馴染めない性質の強いこどもは、「不良」や「発達障碍」などと様々なレッテルを与えられて、静かに排除されていく。

なかぬなら殺してしまへ

とでも言わんばかりに。「殺してしまへ」は大げさだと言うかもしれないが、実際には、学校現場でもいじめはあるし、就職できないためにカネを稼げず、誰の援助も受けられなければ、それは死ぬほど苦しいばかりか、現実の死に直結することすらあるのである。

これは明らかな現代社会の「病み」であり、それはむしろますます拡がっているようにも思える。だが問題の核心はいつも「現状」そのものではなく、それに慣れ、それを当たり前だと見なしている私たちの「価値観」にあるのである。(多数派の)「価値観」が変われば、社会は必ずそれを反映して変わっていくものなのだ。

だから、私も冒頭の句に倣い、

鳴かぬなら鳴かぬでよいぞホトトギス

と言いたい。これは

なかぬなら鳴まで待よ

というのとも違う。これでは、「鳴く」という結果だけが望ましいものとして求められることが示唆されているように感じるからだ。しかし、その「ホトトギス」は必ずしも「鳴く」とは限らない。踊るほうが好きかもしれないし、言葉よりも文章で伝えるほうが得意かもしれない。もしかしたら、「ホトトギス」ではないという可能性もあるのである。これは一見奇妙なことを言っているように思えるかもしれないが、「他者」とはもともとそのような存在なのである。自分にとって「未知」であることが他者の本質であり、そのような「未知の存在」との関わりこそが、私たちに新しい「経験」を与え、お互いを成長させてくれるのだ。

さらに言えば、その相手が鳴きもせず、踊りもせず、笑いもせず、ものを書きもしなかったとしても、それはそれでいいのである。あらゆる存在は「そこに在る」だけで大きな役割を果たしている。これを

あなたはあなたのままでいい

などと言うと、

それでは甘えにつながり、なにもしなくなる

という意見も出てくるのだが、それは誤りなのだ。本来は、いのちの安全が保証され、自分が自分でいられる環境が与えられていれば、自然と自分もなにかをしたくなるものなのである。それならばなぜ「ひきこもり」や「ニート」が現れるのかと言えば、それは彼らが、周りが

あなたはあなたのままでいい

と言いながらも、本当はあなたのままでいいなどとは思っていないこと、そして自分が本当に好きなことをしたとしても、それを周りや社会が認めようとしないことを見抜いている、あるいは恐れているからである。それに「ひきこもり」と呼ばれている彼らも、実際には彼らなりのなんらかの「活動」をしている。ただそれが社会には必ずしも「活動」とは見なされていないだけだ。厳密な意味で、まったくなにもしないで生きていられるひとなどいないのである。

ところで、ホトトギスにはいくつかの当て字があるのだが、これを「時鳥」と書くことも多い。考えてみればこの句に「時鳥」が詠われているのは興味深い。なぜなら、「とき」(時間)もまた、私たちの思うままにならない、未知の存在だからである。それを

殺してしまへ

とばかりに無視してもことはうまく運びにくい。かといって

なかして見せふ

と意気込んで時流を手繰り寄せようとしたからといってそうそううまくいくものではない。そもそも時流を手繰り寄せることができたように見えたとしたら、それ自体が「ときの運」であり、「時流」だったということなのである。だから結局は「鳴まで待よ」ということになるのだが、待ったからといって鳴くとも限らないのである。そうなると、「鳴かぬなら鳴かぬでよいぞ」というような気持ちで、じっくりと構えていたほうがいいようにも思える。そしてそのようなときに、不意に鳴いたりすることもあるからますます不思議なのである。

そのひとにはそのひとの役割があり、そのひとのときの流れがある。それは自分自身にもよく見えないし、他者の目から見えるわけでもない。ただそのような「流れ」は必ずある。そしてそれは予想外のところからやってくることも多い。だからこそ人生は面白いとも言える。私もそんな視点から、自分の人生を見られるようになりたいと思うし、他者のこともそのような観点から、じっくりと見ていられるようになりたいと思う。それになにより、私をそのようにじっくり見守っていてくれた方々のおかげで、今の私があるのである。時代は常に変化し、動き続けている。これからもいろいろなことがあるだろうが、今回調べてみてはじめて、フィギュアスケート選手の織田信成氏が、

鳴かぬならそれでいいじゃんホトトギス

と詠んだことがあるという話を聴いた。こんな流れもあるのなら、これからの未来もますます面白いものになるのかもしれない。