弱い存在が護られず生きられなくなったら、それは人類の退化だ

人類は今でこそ「万物の霊長」を自称するほど地球上で繁栄しているが、単体としては非常にか弱い生物である。生まれたての状態では、周囲の保護がなければほとんどなにもできず、生き延びられない。それに、出産時の負担もとても大きい。こんなか弱い人類が生き残っていくために、私たちは周囲と協力していくことを学んだ。個体の力を強め競争するのではなく、弱い存在は保護し、全体として助け合っていくことで、私たちは生き延びてきたのである。

ところが現代では、まるでその歴史と積み重ねに逆行するかのような動きが起きつつある。人間同士の間で「比較」と「競争」が煽られ、個人は孤立し、問題は自分だけで抱え込まれる。児童は産み棄てられ、虐待され、「出生前診断」などで

「最初から弱い存在を産まない」

という選択すらできるようになってきている。さらには、遺伝子の解析によって、「性別」や「健康度」などを「より望ましい」ものにする「デザイナー・ベイビー」(パーフェクト・ベイビー)の技術も日々「進化」しているのである。

しかし、これが本当に正しいことだと考えられ、より進められるようになったとしたら、それは人類の退化であり、人類の人類たる所以を否定して放棄することに等しい。率直に言えば、その先に待っているのは滅亡以外のなにものでもない。ただ、私は人類の未来への希望を棄てていないので、そうならないことを切に願っているのである。

ときに

人間も自然の一部なのだから、自然界の「弱肉強食」の掟に従って生きるのが本来の姿である

というような言説を耳にすることがある。だがこれは完全な思い違いである。自然界は弱肉強食の世界などではない。ただ、「いのちが巡っている」だけだ。大局的に見れば、そこには強者も弱者も存在しない。あるのは「多様性」だけだ。

人類がここまで発展できたのは、その「多様性」を花開かせたからである。だから、様々な環境に適応して生き延び、それぞれが集団のなかで助け合い生きることができた。そして人類の大きな特長のひとつは、「功利性に囚われず、弱い存在も保護してともに生きてきた」という点にある。たとえば弱い自分のこどもを護るというのは他の動物にも見られるが、人間は自分の直接の子孫でなくても、「困っているひとを助ける」という習性を強く持っている。これが他の種族にまったく見られないとまでは言えないが、それでもこれは人間の大きな特長だと言ってもいいだろう。そしてこれは「他者への共感性」の現れでもあり、「慈悲の心」であると言い換えてもいいと思う。人類は「ひとりでは生きていけない」ということを誰よりもわかっていたからこそ、弱いながらも生き抜いてこられたのである。

一方で現代の「デザイナー・ベイビー」のような動きというのは、「すべてを自分で管理する」という意志に基づいていると言える。そして、こどもを「自分のモノ」だと捉えているかのようだ。だから、まるで自分の調度品を選ぼうとするかのようにこどもをも「取捨選択」しようとしている。しかし、それは傲慢である。

それに、なにが「いいこども」なのかというのも私たちにわかるものではない。ある環境では優位に立っていた存在が、環境が変化すると苦境に立たされる例はいくらでもある。逆に、それまでの環境では発揮されなかった力が、変化した環境で発揮されることもよくあることだ。そして、未来の環境がどう変化するかは誰にもわからない。それなのに、その時代の硬直した価値観にのみ基づいて、「優秀な」存在だけを残そうとした場合、それがどのような悲惨な結果につながるかは、冷静になれば誰の眼にも明らかなのである。

また、私たちは誰かを助けることによって「思いやり」と「共感性」、そして「愛」を学ぶことはよく知られている。みなが画一な「優秀さ」を手に入れたとしたら、その先には「より優秀な」ものを求めようとする、さらに過酷な競争が起こることになるだろう。そうなればそこにはもう、「共感性」などなくなってしまうかもしれない。それはまさに、「人間性の死」である。たとえそのような存在になった「人類」が未来に繁栄することができたとしても、それはもう「人間」ではない。

私たちは人間である。こんなことは言うまでもないことだ。だがその意味を、じっくり問い直してみてほしい。私たちは虎でもない。象でもない。熊でもない。鯨でもない。世界最強の存在では決してないのである。私などは、そんなか弱い人間のなかでもさらに弱い部類の人間である。しかし、私は生きている。それは私だけの力によるものではない。私自身も、誰かの支えになれる存在でありたいと思っている。私は最期まで、人間でありたいと思っているからだ。そんな生きかたができたとき、私も自分の人生を、笑って終われるようになれるだろう。