ひとを動かすのは理屈よりむしろ感情だ。私たちはそれほど理性的ではない

人間は「理性的な存在」だと言われてきた。この「理性」のはたらきの大きさが、人類と他の生物とを区別する重要な特質だともされている。だが考えてみれば、私たちはいつも理性的に判断して、合理的に行動しているわけではない。実際に、「行動経済学」などの分野でも、私たちがいかに「非合理的」なことを日常的に行っているかが明らかにされてきていて、それに基づいて人間の行動様式を考えるうえでのモデルも変化してきているのである。

では、「理屈」以上に私たちを動かしているものはなにかといえば、それが「感情」である。私たちは理性によって感情を抑制し、冷静な判断をするよう求められるが、それは容易ではない。それに、常に理性の判断が正しく、感情的な判断が誤っているとも限らない。「事実」や「証拠」に基づいた「冷静な」判断が結果的には間違いで、感情に基づいた行動が予想以上に善い結果をもたらすことがある。だから私たちは「感情」を「直感」とも呼び、場合によっては理性以上に重要なものと見なしているのである。

理論的にはとても筋が通っていて、それを支持する事実もあるのにもかかわらず、どうしても感情的に納得できないという場面がある。感情もひとつのエネルギーであるのだが、私たちが普段ひとくちに「自分の感情」と言ってみても、そこには多くの要素が影響し合っている。たとえば「他者」の感情や、「場」の感情というものと、自分の感情は無関係ではない。そしてそこにはそれまでの人生の蓄積によって、そのひとの「傾向・癖」も生まれている。それはときに理性などを容易に上回る、大きな影響力を持つのである。

たとえば「宝くじ」を考えてみよう。宝くじがいかに当選確率が低く、購入金額に対してほとんど見返りが期待できない、「割に合わない」博打であることはよく知られている。しかし、それでもその宝くじを買うひとは大勢いる。確かに、宝くじの収益金の一部が地域に役立てられているなどといった面があるにせよ、それを目的として宝くじを買うひとなどほとんどいないだろう。それなら、直接募金したほうがはるかに有益である。だから、宝くじ購入者は基本的に

カネ持ちになりたい!

という目標を目指しているのだが、それが実現する可能性は限りなく低い。それならば、その宝くじを買う資金でなにか美味しいものを食べるとか、もっと有益なことができるのではないか、というのが「理屈」である。だが、今まで何度も宝くじを買ってきたひとにそんなことを言ってみたところで、相手の行動を変えるのは難しい。なにより、相手自身もそんなことは「わかっている」のである。

わかっているけどやめられない

これが感情の力である。

あるいは、「宗教」を考えてみてもいい。その宗教団体の外にいるひとにとって、高額の寄進をして、実際にはほとんど「御利益」のない活動をさせられているのは不可思議なことに思えるかもしれない。しかし、信者はそれを信じることによって、「感情」を動かされているのである。特に宗教団体がもたらすひとつの効果は、日常ではなかなか他者に明かせない「弱み」を共有できるという点にあると言える。共有することにとって、自分の不安は和らぐ。そして、自信を失い、生きる指針を持てずにいる自分に「教義」という軸を与えてくれ、同じ信者という「仲間」を見出すことができる。これによって心が救われていると感じているひとを、理屈で説得するのはそう容易ではないのである。

それでも、本人が満足し、心から喜びを感じているのなら、それはそれぞれの「生きかた」の問題なので、それはそれでいい。ただ問題なのは、それが明らかに本人や周りのひとびとにとって苦しみとなっているのに、感情の力に呑み込まれてその繰り返しから逃れられなくなってしまっている場合である。たとえば、宝くじや賭博で生活資金もままならなくなっているひともいるし、宗教に「洗脳」されて自分の人生を自分で生きられなくなってしまっているようなひとも、実際に存在するのである。そのようなとき、周りが本人をいくら「理屈」で説得しようとしても、感情で縛られた本人にはその声が届かない。これが、深刻な問題を生み出すのである。

このような問題に対しては、相手の「理性」ではなく「感情」を動かすように試みる以外に方法はない。それがすべての根源だからだ。そしてそれは結局のところ、「愛されたい」「理解されたい」という想いに行き着く。カネがあれば自分を愛してくれる、認めてくれる、という想いがあるから、必要以上のカネを得ようとする。

ユダヤ人が世界を裏で支配している という言説がある。これは一定程度の方々の間で受け入れられている話のようである。実際、科学者や芸能人、...

そこで生まれる「連帯感」が欲しいから、狂信的に宗教に嵌まり込んでしまう。それは誰もが持っている想いなのだが、それが度が過ぎて暴走すると、それは「病み」となって心を蝕んでいくのである。

だから、そんなひとに対して私たちができることは、相手の表面的な行動の愚かさを理屈によって並べ立て、説得しようとすることではなく、そのひとを認め、愛することなのだ。

そんなにお金がなくても、プレゼントをくれなくても、私はあなたを愛しているよ

苦しいなら、私にも伝えて。ちゃんと聴きたいと思ってる

たとえばこんなことを言えただけでも、相手の苦しみをかなり和らげることができる。しかし、実はこのようなことをするのさえ、そう簡単ではないのである。なぜなら私たちは常に時間に追われ、他者と比較され、欲望と劣等感を煽られて、余裕を失っているからである。そしてこれもまた、ある種の「感情」によって動かされているということなのだ。

だからこそ、私たちはまず意識的に自分自身の感情と向き合う時間を持つ必要がある。そして、自分の感情は自分で選ぶことができるというのも事実である。怒りを鎮め、穏やかにいようと強く決意すれば、本当にそうなるのである。自分の感情を喜びに向けること、これはなにより大切な精神修養のひとつであり、意識を向けて続ければ続けるほど、確実に上達していけるのである。また、自分の人生の行く末を静かに想像してみたとき、それが希望に満ちたものだと思えないなら、それは人生の選択が間違っているということなのだ。いくら「理屈」のうえでは満ち足りているように見えても、「感情」が納得していないならその場合正しいのは「感情」(直感)のほうである。

こうして、自分の感情とうまく付き合うことができるようになれば、心に余裕が生まれ、自分にも他者にも暖かい目で向き合うことができるようになるだろう。そしてそれは、あなたの世界そのものを動かすのである。私が霊存在との関わりのなかで生きてこられた大きな要因のひとつは、私の師がとても楽しそうだったからだ。

ただでさえ陰鬱に暮らしているひとびとが多いなかで、なぜこのひとはこんなにも飄々として生きていられるのだろう?もしできるなら、自分もこのように生きてみたい

そう思えたから、私はなんとか生きてこられた。そして今、私は師には遠く及ばないながらも、少しは人生の愉しみを理解できるようになってきた。だから私はあなたにも、楽しく生きてほしい。今のままの生きかたを続けても行く末が暗く、満足できないとわかっているのなら、その「心の声」をしっかりすくい取って喜びに向かって歩んでいってほしい。どんなに理屈を並べても、他者の生きかたを変えるのは難しいのはわかっているのだが、もし私の言葉がひとつでもあなたの心に届くなら、私にとってそれは、なによりの喜びなのである。